__桜の咲く季節になったら
此処で, 僕の事を 待ってて 下さい。
言われた時は,なんてロマンチックな人なんだろう,なんて素直に思った。言い方を間違えたら気障っぽくなってしまう。けれど不思議なことに悪い気はしなかった。
だが,肝心なことに。やっと凍てつくような辛い冬が終わり,段々と春らしい爽やかな風が己の頬を掠めるというのに…もう彼とは会うことすら出来ない。
ここ最近,ちょくちょく体調を壊していた彼は,大丈夫…大丈夫,なんて穏やかな口調で私に話しかけては,いつもと同じような笑みをたたえたまま床に伏せていた。そんな彼の気さくな口ぶりから…私はすっかり信じ込んでしまっていた。彼は大丈夫,だって。けれど私の知らぬ間に,実際の病状と彼が私にかける言葉はどんどんと乖離していったらしい。享年,18。これは紛れもない事実である。彼の身体はどんどん蝕まれ,冬を越すまで耐えることが出来なかった。
嗚呼,いつだって嘘をつかなかった彼が私についてくれた優しい嘘。どうしてあの時,見破ることが出来なかったのだろうか。大丈夫,大丈夫。大丈夫な筈がないのに強い薬を片手にそんなことを述べていた彼は,一体どんな気持ちで最期まで私と一緒に居てくれたのだろう。やるせない。
桜の咲く季節になったら此処で,僕の事を待っていてください。…これは,生前の彼と最後に約束したことだ。私に優しい嘘を残して去ってしまった彼のことは些か信用に欠けるが,約束事に関しては絶対に破らない,というポリシーを持っていたことは確かだ。だから,彼が私の心の中で生き続ける限り,今でも有効であるということを信じて。
春が来るまでずっとずっと。待ち続けるのだ。
伝えたい
底抜けに明るく,のびのびとしているアイツは…いつだって俺の目にキラキラして映った。でも最初からわかっている。このどうしようもない己の複雑かつ不浄な気持ちは言語化してはならないと。
でも,揺れ動いて仕方がないのだ。陽の光が差し込む昼下がりの教室の窓際で,友達と朗らかに話していたアイツは…俺と目が合うなりふっと表情を綻ばせた。そしてそれを助長するかの様に,緩やかな風で木の葉が煽られ,教室に入り込む光が繊細に揺れる。
だから,だめだと思いつつもついつい強欲になってしまうもので。もしかしたらアイツだって少なからず俺のことを見てくれているのではないか?なんて都合の良いことばかりを考えて,ずっと己の心の底にしまいこみ,目を瞑ってきた不浄な感情の断片を…結合させてしまいそうになってしまう。嗚呼,誰か,誰か俺を止めてくれないだろうか。自覚してしまったら最後,もう二度と抜け出せない。アイツの沼から抜け出せない。
俺は,男だ。そしてアイツも…男だ。始まらせてしまったら終わったも同然のこの恋を前にして俺は一体,何を出来るだろう。伝えたくても伝えることすら許されないこの恋は…いつ,どんな形で終わりを迎えるのだろう。知りたいが知りたくない,という大きな矛盾を抱えたこの問は,いつになったら分かるのだろう。
いや…わかりたくもない。
だから
今日も変わらずに俺はアイツの隣に並んでいる。
______哀れな気持ちを心の奥に秘めながら。
この場所で
今思い返してみれば,あの頃の俺は人間関係,進路,部活…など。挙げればキリのない程の物事に悩まされていたものだ。毎朝,耳元でけたたましく鳴り響く目覚まし時計を止めれば一日が始まり,ドロドロとした人間関係の軋轢を超えてやっと帰宅すれば溜め込んでいた課題に手をつけて…気付けば寝落ちしている,そんなありふれた日常。いつになったらこの堂々巡りの日々から抜け出し,前に進めるのかと非常に頭を痛めた。けれど,あの場所にいる時だけは…そんな俺も全ての事柄から開放されるのだ。
部活を終え,だらだらと重苦しい足取りで真っ暗な廊下を1人,歩いていた時のこと。普段はなんの光もない音楽室の小窓からふっと,無機質な廊下に不似合いな様の柔らかい…暖色系の色合いの光が盛れ出しているのが目に入る。俺は困惑した。こんな時間に…誰か音楽室にいるのだろうか。はたまた,音楽教師が授業後に消し忘れたのだろうか。けれど,不意に微かなピアノの音色が己の鼓動を震わせた時,そんなことはどうでも良くなった。
極小さな光の粒がさわさわと淡い光に照らされて時折光り輝くような…本当に,繊細な音。それは己の心の奥深くまで入り込んでは出ていこうとしない。俺は,その場から動けなくなった。いや,これには些か語弊があるかもしれない。正しく言えば…その場から動きたく無くなった。
__このまま,時が止まれば良い,なんて思った。