ねえ、知ってる?
空が青いのはね。神様が世界を作った時、青の絵の具がいっぱい余ったからなのよ。
余った絵の具を贅沢に、神様はお空に青をぶちまけたの!
真っ赤なランドセルを背負ったあの子は、そう言って得意げに笑っていた。
久方ぶりに地元に帰り、ふらり。かつての通学路を歩いてみる。
チューリップの花壇も、押しボタンの横断歩道も、記憶よりもずっと小さい。重たいランドセルを背負って必死に歩いたあの道を、大人の歩幅は簡単に踏み越えていく。
寄り道の公園。
平日の真っ昼間だ。子供達の声はなく、佇むのは僕一人。
風に揺れる寂しげなブランコ。なんとなく呼ばれたような気がして、少しだけ辺りを見回してから腰掛ける。
わずかに地面を蹴れば、軋んだを音を響かせて、ブランコは歌い出す。
キィ、キィ。錆びついたメロディ。
頬を撫でる風。童心を連れる浮遊感。
木々の隙間から見える空が、近づいては遠ざかって。
蘇るのは過ぎ去りし日々。
いつも、隣にいたあの子。
隣の家に住んでいたあの子。
見上げた空の青さの理由を、得意げに教えてくれたっけ。
野原は緑、花々は赤や黄。アスファルトは灰色で、たしかに青は使わない。
そんなふうに納得して、僕はすっかり彼女の言葉を信じていた。
ちょっとまって。青色は、海にたっぷり使うじゃないか!
気づいた時には、あの子はもう、遠くの街へと越してしまった。
それっきり。思い出の奥底にいた面影。
はずむように揺れるおさげ髪。それ以外はなにも。
声も、顔も思い出せないけれど。今もどこかで元気にしているのだろうか。
僕の世界の空はすっかり理屈で出来上がってしまったけれど。彼女の世界は今もまだ、神様の絵の具でできているのだろうか。
靴裏のブレーキで思い出をせき止めて。僕はゆっくりとブランコを降りる。
――そうだったらいいな。
掌に残った鉄の匂いを嗅ぎながら、僕はもう一度空を見上げた。
【空はこんなにも】
アスファルトの濡れた匂い。
どこか懐かしいそれが大好きだ。
乾いた地面と、落ちる雫のハーモナイズ。
それは世界が変わっていく合図。
排気ガス、くぐもった心の叫び。それらを全部洗い流して、さあさあと雨は弾ける。
ああ、雨が上がった。
虹はない、雲まだ立ち込めている。
それでも世界は晴れやかに、小さな再誕を迎えるのだ。
【雨上がり】
あなたのことを忘れない。
そう思うのは簡単だ。
誓って、胸に刻んで。そうすればこれからもあなたと共に生きていけるから。
それでも残酷な時の流れは、心の形を変えていく。
永劫変わらぬと信じた愛も、痛みも、濁流に押し流されて。過ぎゆく年月に呑み込まれ、泡沫の中に溶けていく。
忘れぬはずのあなたを、思い出すことが増えていく。
思い出すことも、難しくなっていく。
そうして散った誓いの数だけ、この花は咲くのだろう。
青紫の花弁は記す。
誓いがいつしか夢と消えても、忘れまいと願った事実は変わらない。
【勿忘草】
熱が出る。ちょっと嬉しい。
大人になると、一人で立たなくてはならないから。頑張ることが当たり前で、その上で成果を出さないと誰も認めてくれない。褒めてなんて、当然くれない。優しく頭を撫でて微笑んでくれる。そうして容易く得られた体温が、まるで幻のように遠くなる。
だからだろう。この特権が、たまらなく嬉しいのだ。
眠りから覚めた顔を、心配そうに覗き込む。そうして額に差し伸べられる手のひら。いつもより優しく、気遣うような愛情。
あの頃は得られた、けれど今はもう、遠ざかってしまったすべてが、今だけは全部わたしのもの。
不安そうな顔をするあなたに、こんなこと言ったら呆れられてしまいそう。だから、この思いは内緒。
明日になったら、きっと全てが元通り。それまでは、あたたかな愛に甘えていよう。
【風邪】
落ちる、落ちる、落ちていく。
重力が私を包み込んで、勢いのまま引き摺り落とす。
抗うこともできずただ、加速する空気に肌を切られて、果ての見えぬ世界の底へと吸い込まれていく。
はじめは、やがて来たる終焉を恐れた。けれど、落ちるばかり。いつまで経っても果ては来ない。
次第に落ちていることが当たり前になって、刃のような風の音、凍える寒さに慣れていく。逆さまの世界が、私の生きる世界に変わっていく。
ああ、落ちる前。私はどうやって生きてきたんだっけ?
考えてももう、思い出せない。どのくらい落ちているのか、どのくらい時が経ったのか、全てが溶けて曖昧になっていく。
落ちる、落ちる、落ちていく。
果てへの恐怖はもうない。ただ、終わりの来ない永劫の落下が、まるで罰のように退屈だった。
【逆さま】