アスファルトの濡れた匂い。
どこか懐かしいそれが大好きだ。
乾いた地面と、落ちる雫のハーモナイズ。
それは世界が変わっていく合図。
排気ガス、くぐもった心の叫び。それらを全部洗い流して、さあさあと雨は弾ける。
ああ、雨が上がった。
虹はない、雲まだ立ち込めている。
それでも世界は晴れやかに、小さな再誕を迎えるのだ。
【雨上がり】
あなたのことを忘れない。
そう思うのは簡単だ。
誓って、胸に刻んで。そうすればこれからもあなたと共に生きていけるから。
それでも残酷な時の流れは、心の形を変えていく。
永劫変わらぬと信じた愛も、痛みも、濁流に押し流されて。過ぎゆく年月に呑み込まれ、泡沫の中に溶けていく。
忘れぬはずのあなたを、思い出すことが増えていく。
思い出すことも、難しくなっていく。
そうして散った誓いの数だけ、この花は咲くのだろう。
青紫の花弁は記す。
誓いがいつしか夢と消えても、忘れまいと願った事実は変わらない。
【勿忘草】
熱が出る。ちょっと嬉しい。
大人になると、一人で立たなくてはならないから。頑張ることが当たり前で、その上で成果を出さないと誰も認めてくれない。褒めてなんて、当然くれない。優しく頭を撫でて微笑んでくれる。そうして容易く得られた体温が、まるで幻のように遠くなる。
だからだろう。この特権が、たまらなく嬉しいのだ。
眠りから覚めた顔を、心配そうに覗き込む。そうして額に差し伸べられる手のひら。いつもより優しく、気遣うような愛情。
あの頃は得られた、けれど今はもう、遠ざかってしまったすべてが、今だけは全部わたしのもの。
不安そうな顔をするあなたに、こんなこと言ったら呆れられてしまいそう。だから、この思いは内緒。
明日になったら、きっと全てが元通り。それまでは、あたたかな愛に甘えていよう。
【風邪】
落ちる、落ちる、落ちていく。
重力が私を包み込んで、勢いのまま引き摺り落とす。
抗うこともできずただ、加速する空気に肌を切られて、果ての見えぬ世界の底へと吸い込まれていく。
はじめは、やがて来たる終焉を恐れた。けれど、落ちるばかり。いつまで経っても果ては来ない。
次第に落ちていることが当たり前になって、刃のような風の音、凍える寒さに慣れていく。逆さまの世界が、私の生きる世界に変わっていく。
ああ、落ちる前。私はどうやって生きてきたんだっけ?
考えてももう、思い出せない。どのくらい落ちているのか、どのくらい時が経ったのか、全てが溶けて曖昧になっていく。
落ちる、落ちる、落ちていく。
果てへの恐怖はもうない。ただ、終わりの来ない永劫の落下が、まるで罰のように退屈だった。
【逆さま】
道端に咲いた白い花。静かに佇む一輪にそっと祈りを託す。
スキ、キライ、スキ、キライ……
呟いては摘み取って、花弁がはらはらと舞い落ちる。
一枚、二枚、重ねていくたび。心は期待と不安に躍る。
占うのは君の心。素直になれない恋の行方。
どうかお願い。わたしが君に抱く心。同じものを君も抱いていてほしい。
すれ違った瞬間、目が合ったのは気のせいなんかじゃなかったと。そう思わせてほしい。
残す花弁はあとわずか。寂しげな筒状花と目が合って、心がざわめく。
もし、最後に残るの望んだ答えでなかったら。そんな予感に指が止まる。怖い。けれど、後には引けない。
目を閉じて、深く息を吸う。
ゆっくりと吐いて、また向き合う。
大丈夫。信じてる。
きっとこの恋は未来に繋がっている。
スキ、キライ、スキ、キライ……
ひらり、最後の花弁のこたえは――。
【好き嫌い】