最後の声
妻が言葉を話さなくなって二十年になる。
私が最後に聞いた彼女の声は
「大丈夫、神さまと約束したから」
だった。
当時私たちの幼い息子は重篤な病に苦しんでいた。
医者が首を傾げるような、奇跡的な回復を遂げたのはその直後。健康に立派に育った息子が、独立して家を出たのは先日のことだ。
「なぁ、お前」
私は、湯呑みを手で包むようにして茶を飲んでいる妻に話しかけた。
「あの時、神さまとどんな約束をしたんだい?」
二十年繰り返したこの問いに、妻は穏やかに笑うだけでやはり何も言わない。
空はこんなにも
空はピンク色だった。
砂嵐のせいだよ、と夫が言う。
(夫…なんて新鮮で素敵な言葉!)
私がこんなにわくわくしているのに、「大丈夫?」と彼は心配そうだ。
「どうして?ピンクって大好き」
「そうじゃなくて…当分外には出られないし、シティにもまだ人は少ないし、娯楽もないし」
そんなことは何でもないのだという話は、今まで何度もした。
女優という職業のせいで華やかに見られがちだけど、もともと私は大変な田舎の出身だ。
お堅い惑星開発技術者の彼と電撃結婚したときも、同時に引退したときも、彼に付いて最初の火星移住者になると決めたときも、ずいぶん周りに反対された。
でも素の私を全部分かっている人はいない、愛する夫でさえも。
「私はね、あなたがいれば幸せなの。一生かけて証明してあげる」
ドームの窓辺に寄り添って、暮れてゆく空を二人で眺める。
初めて見る火星の夕焼けは、ああこんなにも青いのね。
子供の頃の夢
子供の頃の夢?そんなの私に聞いてどうするんですか。
二百年も前のこと覚えてないし、なりたい職業っても昼間出歩けないし、不老不死だし将来もなにもないでしょ。
吸血鬼のこと弄ってます?差別だわ。
糸
蓮の茎から取り出した糸の束を、花や草や木の枝に掛けてゆくお姫さま。
すると不思議なことに、糸はみるみるその色に染まってゆくのです。
お姫さまはその五色の糸で曼荼羅を織り、それは「蓮の曼荼羅」と呼ばれて、今も奈良のお寺にあります。
……という「ちゅうじょう姫」の絵本が好きだったのだが、偶然訪れた當麻寺こそその“奈良のお寺”だった。
中将姫を架空の人物だと勝手に思い込んでいたので、現実の蓮の曼荼羅(複製)や姫の像を目にして
「わぁ、本物!?」
と感動してしまった。
でも賢くて信心深い中将姫自身より、子供の頃惹かれたのは蓮の糸が草木で五色に染まるシーン。
芙蓉の花の色、タチアオイの花の色、萩の花と葉っぱの色、松の枝色…。
美しい伝説に再会した後は、名物の「中将餅」を食べて帰った。
届かないのに
お皿に盛ったポテチを、これ見よがしに口に入れた。
妹がチラッとこちらを見て、ふて腐れたようにスマホへ目を戻す。
さっきケンカをしたばかり。明らかにあっちの言い掛かりだし、これは私の買ったポテチだから、一枚だって妹にあげるつもりはない。
すると目の前で、一掴み分のポテチがパッと消えた。
「あっ」と声を上げると、ソファーの陰で妹がにやにやしている。
さらにもう一掴み分。
頭にきた私は、妹のスマホに意識を集中し、ポーンと天井近くまで持ち上げた。
妹が焦って手を伸ばしても、ちょうど手の届かない絶妙な高さで宙を漂わせる。
「ちょっと、やめてよ!」
「そっちが先に始めたんじゃん!」
幼い頃から二人で競うように習得したサイコキネシス。
こんなことにしか、お互い使い道はないのだ。