#もう一つの物語
ひろと君と僕は、今日学校で習った宇宙のことを話しながら帰った。
太陽系のこと、ビッグバンのこと、宇宙は膨らみ続けていて、星たちがどんどん離れていることなど。
「でもさ…」
ひろと君は空を指差した。
「あれのこととか、ぜんぜん説明してくれなかったよね、先生は」
僕らは夕焼けの空を見上げ、ゆったりと漂う巨大な宇宙クジラを眺める。
「たぶん、大人も知らない別のお話があるんだよ」
と僕は言った。
#暗がりの中で
明かりを消してベッドに横たわり、お気に入りの睡眠催眠の動画を開く。
落ち着いた男性の声に誘導されて、心地よく寝落ち出来るので、最近毎晩聴くようになった。
「今日も一日お疲れ様でした。ここからはあなたのための時間です。一緒に眠りの旅へと出掛けましょう」
優しい音楽と共に誘導が始まり、簡単な呼吸法と、体の部位に意識を向けるボディスキャンを経て、イメージの世界へと旅立つ。
「あなたは月明かりに照らされた、美しい森の中を歩いています…」
起きているのか眠っているのか、ちょうど中間のような感じで、ふわふわと導かれてゆく。
森の小道を抜けると、小さなコテージがあって、そこには暖かな暖炉と柔らかなベッドがあって…。
いつもそう続くはずのところで、男性の声がこう言った。
「あなたは更に森の奥深く、暗い洞窟の中へと入って行きます」
あれ…?バージョンアップされたのかな?
すでに眠りに落ちかけている私は、ぼんやりとしか考えられない。
「暗がりの中には、大きな黒い獣が潜んでいます…あなたはその赤い口に向かって、一歩づつ進んで行きます…」
え…?こんなの知らない…。
少し気味悪くなり、動画を消そうと思ったが、金縛りにあったように、瞼さえ開かない。
「あなたはどんどん黒い獣に近づいて行きます…」
ヒヒッと声が嗤う。
「もういいだろ、さっさと喰われろ」
ベッドの中でピクリとも動けないまま、私は大量の汗が吹き出すのを感じた。
生臭い熱い息が、頬に触れたのだ。
#愛言葉
ロボット執事のジョージは、毎朝ポットに熱いお茶を淹れて、博士の部屋を訪れる。
「お目覚めでしょうか、博士」
主であるディー博士は、大抵起きて身支度をしている。
「おはようジョージ、お茶はそこに置いてくれ」
ジョージはポットをテーブルに置き、博士の着替えを手伝う。
高名な科学者のディー博士は、長年アカデミーで研究職に就いており、退職を期にこの小さな星を手に入れて、隠居生活を送っていた。
草木も生えない不毛の星だが、ドーム型住居地の中は、人口太陽と空調のお陰で、花と緑があふれる楽園になっている。
博士の暮らしはこんな風だ。
朝はジョージが丹精込めて世話をしている庭を散歩し、昼はジョージと共に研究資料や回想録をまとめ、夜にはジョージの奏でる音楽を楽しむ。
主と執事、人とロボットという枠を超えて、二人は無二のパートナーであり、友達だった。
朝の身支度が終わると、博士はジョージの淹れたお茶を手に取り、香りを楽しむように顔を寄せる。
だがカップに口は付けず、そのままテーブルに返して立ち上がった。
「では散歩に行こう。ジョージ、ステッキを取ってくれ」
「はい、博士」
その時である。
博士は突然動きを止め、音を立ててその場に崩れ落ちた。
「博士、博士、どうなさいましたか」
ジョージは博士を抱き起こし、顔を覗き込んだ。
だが返事はなく、目はぽっかり見開かれたまま、反応がない。
ジョージはその身体をそっとうつ伏せにし、白髪に覆われた後頭部を探った。
微かな突起に触れると、頭皮の一部が外れ、小さなパネルが現れる。
そろそろメンテナンスの時期か…とジョージは考えた。
ディー博士は二十年前、資産の全てをジョージに遺して亡くなった。
希望すれば研究助手ロボットとして、アカデミーに戻ることも出来たが、ジョージはそうはしなかった。
博士の記憶を移した、博士そっくりのロボットを作り、これまで通りの生活を送ることを選んだのである。
ジョージがパネルを操作すると、ジジ…と小さな起動音がして、博士の目に光が宿った。
博士は何事もなかったように立ち上がり
「では散歩に行こう。ジョージ、ステッキを取ってくれ」
と言った。
「はい、博士」
ジョージはステッキを手渡し、冷めたお茶を片付ける。
宇宙の片隅で繰り返されるこの言葉が、ロボットたちの愛言葉であった。
いつか壊れるその日まで。
#忘れたくても忘れられない
京都の千本今出川にある、カステラ屋さん。
子供の頃、祖父母の家を訪ねる時のお土産は、いつもそこのカステラだった。
幅一メートル位ありそうな、四角い木箱に入ったカステラが、奥から次々運ばれてきて、スッスッと目の前でカットされる。
表面はつやつやの茶色、中は目の覚めるような黄色、その美しさをうっとり眺めた。
嬉しいのは小さな紙箱に、お試し用の切れ端が貰えたこと。
お試しを全部食べても、ああこの十倍くらいあったらな…といつも思っていた。
祖母は持って行ったカステラを、すぐ仏壇に供えてしまって、絶対出してくれなかったのだ。
京都を離れてずいぶん経つが、どんなに美味しいと評判のカステラを食べても、あのカステラが忘れられない。
そうだ、お取り寄せだ!と思いついたのは、つい数年前のことである。
もはや私は大人、どんなに大きなカステラでも買えるくらいの財力はある。
そして…食べました。
忘れたくても忘れられなかったカステラを、思いきり。
思い出補正かと心配だった味は昔のまま、本当に美味しくて、これ…これなのよ…と涙ぐみそうになった。
だけどどうしたことか、以来あのカステラへの執着は、ばったり失くなってしまった。
きっと子供の頃の思いが満たされて、私はすっかり満足してしまったのだろう。
#やわらかな光
お昼寝中のあなたの顔に、陽が射している。
起こさないよう、そうっとレースのカーテンを閉めましょう。
まだもう少し、やわらかな眠りに包まれていて。
ママがこの本を読み終わるまで。