桜
桜が満開の中、満月の夜に死にたいと言った西行さん。桜の樹の下には死体が眠っていると、物騒なことを言った安吾さん。
でも、実際に、両脇が桜並木になっている道を満開の時に歩けば、どちらにも非常に共感する。それだけ、桜の花には妖しい魅力がある。
花びら5枚に、シベが付いている、樹に咲く花もたくさんある。花としての基本は他の花と違わないのに、何がそんなに魅力的なのか?
薄いピンクの花びらで、たくさんの花が集まって咲いているのがなにしろ美しいし、数日の間にほぼ咲き揃い、さらに数日後悲しいぐらいはらはらと花びらが散り、そしておしまい。潔い感じがするのもある。
でも妖しい要素は?夜見る桜だと、小さな灯りにぼぉっと浮かび上がり、そうとう妖しい。夜桜という表現だって、他の花には無い。夜牡丹とか、夜ツツジなどと呼ばない。
このあたりが、西行さんや安吾さんの心を動かし(もちろん他にもたくさん、取り上げられてます)、私たちの心を惹きつけてやまないのだろう。
No.158
君と
一人暮らしだけど、大きな冷凍庫を買った。 冷蔵庫は1つあるんだが、最近の家電は省エネだしあまり開閉しなきゃ、そんなに電気代かからないぞ。俺は嬉しくなって口笛を吹いた。
さて、何を入れようかな。いや、もう決まってるんだ。君だよ。
今は押し入れで横たわっている君を、この冷凍庫に入れる。ドアを開ければ、いつでも君に会える。
これからはずっと、君と一緒だよ。
No.157
空に向かって
陸上部でずっと短距離をやっていたのに、コーチが「たかおは長距離の方が向いてるぞ。長距離をやってみないか」僕は半信半疑で、曖昧な顔をしたらしい。「騙されたと思って!インターハイは長距離を目指そう」重ねてコーチが言った。
短距離でもそこそこの記録は出ているけど、確かに伸び悩んでいる。でもだからと言って、急に長距離だなんて、無茶じゃないか?
その日から長距離向けの練習に切り替わった。まず筋トレだった。前から筋トレは取り入れていたけど、体力をつけるための筋トレだ。瞬発力でやっていたのが、長く走るのだから、速筋から遅筋にならなければならない。
インターハイまで3ヶ月しか無いのに、コーチはどうしても長距離にいけという。僕はだいじょうぶなのか?
なんだかんだで1ヶ月過ぎた今日から10000メートルの練習だって。校庭の400メートルコースを使って、25周。多いのか少ないのかのイメージも沸かない。
走り始めてからもなんだか分からない。僕は、ちゃんとコースを走りながら、気分は迷走していた。
「たかおーっ、あと1周だぞー」コーチの声で我に返った。そんなにもう走ったんだ。最初は辛かったのに、いつの間にか当たり前のように走り続けていた。心身ともに辛くなかった。予想したほど体調は悪くなかった。むしろ良い。僕は空に向かって走っている気分だった。
ランナーズハイという言葉があるが、これか!身を持って実感した瞬間だった。
No.156
はじめまして
今月も、新人さんが入ってきた。
「はじめまして、天沼と申します」
総務課は、寿退社が多いので出入りが激しい。そのたびに新人教育をするのはたいへんだ。
でも天沼さんは結婚してからの再就職なので、寿退社は無いな。初々しさはあまり感じられないけど、誠実そうで好感が持てた。自意識過剰な若い子よりよほど良い。(あーこれってなんとかハラなのかな)
さて、俺は出張だったので、彼女の初日には会えていない。同僚に、何気なく天沼さんの話題を振ってみるが、どうもなんというか、不思議な顔をする。
「な、なんなの?天沼さんと何かあった?」
「いいえ、特に何も無いんですけど、何ていうか・・・私は、ああいう人はじめまして、でした」
よく聞いてみると、天沼さんは「踊る」そうだ。廊下でも狭い給湯室でも、暇さえあれば踊っているらしい。バレエ風の美しい所作だという。
でも、俺は内心ホッとした。何か仕事で問題を起こしたり変なコトを言う人では無いらしい。好きなだけ踊って欲しいもんだ。
No.155
またね!
小学校3年生の春、とても気が合う友だちができた。大人しくてあまりしゃべらない子だったけど、久美ちゃんは、休み時間になると私のところにやってきてそばにいる。
そうされると私も嬉しいし、いろいろ話をするようになった。何か言うと、一言二言返事もしてくれて、だんだん話が弾むようになった。
クラス替えが2年毎だったので、2年間は少なくとも同じクラスに居られると思ったのに、久美ちゃんは父親の仕事の都合で、4年生の秋に転校することになった。
私は、驚いた。せっかく親しくなったのに寂しくて悲しかった。でも久美ちゃんに言ってもどうにもならないことは分かっていた。久美ちゃんも悲しそうだった。
クラスで前に出ての挨拶のとき、久美ちゃんは私の方をみたとたんにポロポロ涙をこぼした。私も泣いた。
次の日が日曜日で、久美ちゃん一家の引っ越しの日だった。私は、早めに久美ちゃんの家に行きたかったが、親に「引っ越しの時なんかすごく忙しいんだから、早く行ったら迷惑だよ」と引き留められた。
やっと許しを得て、出発時間のほんの少し前に久美ちゃんの家に着いたら、誰も居なくて何も無かった。カーテンが外された窓から、家の中が見えたのだ。多分、準備が早く出来たので、早く出発したのだろう。
私は、行き場の無い悲しみに、久美ちゃんの家の前で号泣した。気がついたら泣きながら繰り返し「久美ちゃんまたね!久美ちゃんまたね!」と叫んでいた。
この出来事は、今でも私の心に傷となって残っている。久美ちゃんだって、私が行けなかったことで、泣いてくれたんじゃないかと思っている。
No.154