ありがとう、ごめんね
こんな私を友だちだと言ってくれる人がいた。同じクラスになったのをきっかけに、話をするようになったクラスメイトのゆみちゃんだった。
福島の小さな炭鉱町に生まれた私たちの世界は狭かった。家にせまる山々は当たり前の風景だが、町のあちこちに大きな砂山のようなものがあり、地元の人達はそれをズリ山と呼んでいた。それが、炭鉱町にしか無いのも後で知った。ズリとは、石炭を掘り出したあとの土や石くれ、使い物にならない小さな石炭くずのことだ。それを捨てたものが町に数ヶ所、人工的な山になったのがズリ山だった。
小学校の高学年になって、学校で何故かお誕生日会を開くのが流行った。私はどの子のお誕生日会にも呼ばれることはなかった。寂しかった。
そんなある日、ゆみちゃんが言った。
「かおるちゃん、今度の日曜日、私の誕生日なんだ。お母さんがお友だちを呼んでおいでって」
初めてのお誕生日会参加で、私は舞い上がった。母にもらった綺麗なハンカチを包んでプレゼントに持って行った。
ゆみちゃんの家に行ってみると、私以外、誰もいなかった。私は思わず「なんだ、みんな居るのかと思った」と言ってしまった。ゆみちゃんはすごく悲しそうな顔をして、
「ごめんね。私、誰からも誘われなかったから、誰にも来てって言えなかったの。かおるちゃんなら友だちだから、来てくれると思ったの」
私は心ないことを言ってしまったと、自分を殴りたい気持ちだった。
「ありがとう。私を友だちって言ってくれて!もちろん、ゆみちゃんは私のたった一人の友だちだよ。それなのにごめんね。あんなこと言っちゃって」
ゆみちゃんは、私の言葉を聞きながら笑顔になっていった。
「もういいの。さ、食べよう」
食卓には、ゆみちゃんのお母さんが用意してくれた、精一杯の料理が並んでいた。それは質素なものだったが、私はゆみちゃんといろんな話をしながら食べて、本当に幸せなひとときを過ごした。
部屋の片隅で
私が小さなとき、両親はケンカばかりしていて、それも母はガーガー言うし父は殴る蹴るモノを投げるという凄まじいケンカだった。
小学生低学年の頃、母が私に言った。
「あんたって、かわいくない子だねぇ。普通、親がケンカしてたら、『お母さんを叩かないで』って、母親を庇うもんじゃないの?それなのにあんたは、じーっと黙って見てて!」
確かに、私はそういう子だった。母は言いすぎるし、暴力を振るう父は言語道断。でも、今回の場合は母が悪いな。とか、父がわけも聞かずに殴ったな。とか、思いながら見ていた。 昔の古い日本家屋で、居間は非常に狭く、両親がガタガタやっている部屋の片隅で、冷静に状況を分析していた。
子ども心に、なんで2人ともあーなんだろうと、呆れていた部分もあった。母の暴言、父の暴力は、私にも例外無く向けられていたから、そういう人たちだから仕方ない、と受け止めていた。
今だったら2人ともDVで逮捕されるレベルだが、古き良き、いや古き悪き時代のことだった。
逆さま
日本三景の一つ、京都府の天橋立(あまのはしだて)は、股のぞきで有名だ。体を前に曲げて足の間から見ると、橋が昇り龍のように見えるという。
天橋立だけでなく、股のぞきすると違う世界になって新鮮に見える。見える世界が逆さまになって、雰囲気がまったく変わるのだ。
そう言えば最近、股のぞきはしていないなぁ。今度見晴らしの良い場所に行ったらやってみよう。
年を取った今だからこそ、見えるものが違うかも知れない。
眠れないほど
乳児には、眠ってまた起きる、という概念や経験がないため寝ぐずりするらしい。眠りに落ちるとき、これで目の前にいる人たちとの別れだと思ってしまう。なにか大きな力で、瞼が重くなってきて、どうしても目を開いていられない。大好きなママやパパと、もう会えないかも知れない!と思ったら、悲しくなるよね。
さて、東日本大震災のとき、放射能流出と騒がれたいわき市に住んでいた弟夫婦から、まだ3歳だった甥を預かった。祖母である私の実母と一緒だからか、特に困らせることなく、淡々と普通に生活していた。
でもそんなある日、弟夫婦が甥に会いに来た。それはそれは喜んではしゃぐ姿を見て、やはり寂しかったんだなと、胸を突かれた。
一晩泊まった次の日、お昼寝をさせたら寝ている間に帰ると、大人たちは打ち合わせていた。いつも通りが良いだろうと、母が連れて行って寝かしつけようとしたが、これがなかなか眠りにつかない。興奮と、せっかく会ったパパとママが帰ってしまうのではないかという心配があったと思う。それは、眠れないほど辛いことだったのだ。
眠りの概念と経験が邪魔したことになる。結局、いつも昼寝しているので、粘って粘って3時間で撃沈した。その間に弟夫婦は帰ったのだが、2人とも帰りの車の中で号泣したそうだ。久しぶりに会った息子とまた別れなければならなかったのだから、そうだろう。
そんなふうに眠りについたが、甥は目覚めるとぐずることはなく、「パパとママは?」「うん、お仕事に行ったけど、また来るって」
その意味は分かったのだろうに、賢い子だから、また淡々と日常生活に戻った。
戻ったのがまた切なく愛しく、あの3ヶ月間は私にとっても複雑な思い出になった。
夢と現実
私の知り合いに、臨死体験をした人が2人居る。2人とも、お花畑と川がある場所まで行ったという。
1人はパステルカラーのお花畑でキレイだなぁとぼぉっと眺めていたら、対岸から亡くなった叔母さんがあっちへ行けという手振りをしたので戻ってきたそうだ。
もう1人は、原色の派手な花が咲き誇るお花畑を通り抜け、対岸から亡くなった母親と従兄弟が手招きしていて、そっちに行きたくて川を渡ろうとしたら、ものすごい濁流渦巻き、渡るに渡れなくて戻ってきたという。
この2人の話からも、お花畑は本人のイメージから成っているのが分かる。おそらく、死ぬほど出血したり、ひどい病気だったりして、「もう死ぬのか」と思ったところから、脳内でその構図を作り上げるのではないか。要するにある意味ひとつの夢だと推察する。
本人の現世への心残りで、戻ってこようとするとき、そのストーリーも自分で作るのだろう。呼ばれたり、あっちへ行けと言われたこともだ。
さて、本当のところ「あの世」があるのかどうかも分からないので、これ以上は言えない。でも、現実に生きながらえた2人はいま、充実した生活を送っている。
夢でも現実でもいいが、戻ってきて良かったのだと思う。