『君と僕の、桜日和』
春の匂いが
まだ名前を持たない朝に漂って、
ふたりの影は
やわらかいピンク色の風に溶けていく。
「きれいだね」と君が言うたび、
その声が花びらになって、
僕の胸のどこかへそっと落ちた。
桜は一瞬で散るからこそ、
人はこんなにも
大切に、そっと息をのみながら眺めるのだろう。
君と歩く並木道は
過去でも未来でもなく、
ただ“今”だけに咲いている。
指先が触れたとき、
花より先に、
僕の心がほころんだ。
風が吹く。
世界は淡く舞い上がる。
君が笑う。
世界は音もなく満ちていく。
もしも季節が巡って
桜の気まぐれが今年も僕らを追い越していっても、
今日の光だけは
ずっと胸の奥で散らずに揺れているだろう。
——君と僕の、桜日和。
それは花より先に咲いた、
小さな奇跡の名前だ。
『記憶のランタン』
夜の底で
ふと手に触れたのは、
まだ温かい——
あなたの昨日が灯した、小さな灯火。
ランタンは言う。
「忘れたくないものほど、
人はそっと置き去りにしてしまう」と。
だから光は揺れる。
涙のように、
祈りのように、
消えそうで消えない約束みたいに。
風が吹けば、
過ぎていった声の匂いがふわりと混ざり、
あの日の影が、胸の奥で静かに再生される。
でも恐れなくていい。
記憶のランタンは
過去を縛る檻ではなく、
未来を照らすための種火だ。
あなたが歩くたび、
炎は澄んでいく。
余計なものは燃え、
残るのはただ、
ほんとうに大切だった一瞬だけ。
そして夜明け前、
ランタンの光は少しだけ青くなる。
それは、新しい物語を迎えるために
心が静かに整っていく合図。
——どうか、持っていきなさい。
あなたが選んだ記憶だけを詰めた
そのランタンを。
旅はまだ続くのだから。
『仮面のまま歳を重ねて』
大人たちよ、
あなたたちはいつから
立派なふりを覚えたのだろう。
正しさを語る声は震えている。
自信を装う背中は、どこか幼い。
胸の奥では、
十二歳のままの心臓が
不安のリズムを叩いている。
社会という教室では
誰もが机を並べ
「大人とはこうあるべきだ」と
互いに答案を見せ合っている。
だが、答え合わせは永遠に行われない。
誰も正解を知らないからだ。
怒鳴る上司も、
微笑む親も、
背伸びして恋を語る人も、
みな、仮面を貼りつけたまま
“成熟の劇”を演じているだけ。
夜、家に帰ると
仮面の裏側が泣いていることを
自分たちだけが知っている。
大人は存在しない。
あるのは、
大人という影を追いかける子どもたち。
未完成のまま歳を重ね、
未解決のまま責任を背負い、
未熟なまま世界を回している。
けれど──
だからこそ、
たったひとつの真実がある。
子どもであることを恥じぬ者だけが、
本当の意味で成長するのだ。
仮面をそっと外したとき、
きみの瞳に映る世界だけが、
大人という幻想を超えていく。
「努力とは、行為そのものを愛せるようになるまでの道のりである」
静かな正義の果てに
ハラスメントも行きすぎたら、
痛みのない世界ができあがる。
けれど、痛みのない世界に、
思いやりは生まれるのだろうか。
正義はいつも眩しすぎて、
光の裏で影が泣いている。
守るための線を引くたび、
人の心は細く、浅くなっていく。
何が過ちで、何が優しさか。
誰もが自分を守りながら、
誰かを遠ざけていく。
ただ一つ、祈るように思う。
正しさよりも、温もりを失わぬように。