『心だけ、逃避行のち晴れでしょう』
雨の音にまぎれて そっと歩き出した
誰にも気づかれないように
心だけ 傘もささずに
知らない空へ 逃げ出した
言い訳も 目的地もないまま
ただ、少しだけ 呼吸がしたかった
笑顔の仮面が重すぎて
「大丈夫」の言葉が嘘に見えてきたから
置き去りにした日々は
窓辺に濡れたままの洗濯物みたいに
未練をまとって揺れていたけど
それでも、背を向けて歩いた
そして、気づいた
逃げた先に 雨ばかりじゃないことに
雲の切れ間に 差し込む光が
名前もなく微笑んでいたことに
心だけ、逃避行のち晴れでしょう
予報士なんていなくても
自分の空は 自分で晴らせる
涙が乾く頃には
少しだけ前を向いてる
そんな自分を 誰より信じてみたいから
『あの日の毛色』
あの日の毛色は
やわらかな灰色
雨の前にだけ香る 湿った空気のような色だった
陽のあたる窓辺では
銀に透けて
影の中では 墨のように沈んだ
鳴きもせず
ただ、こちらを見つめていた
問いも答えも いらないと
その目が言っていた
手を伸ばせば届く距離で
でも、心だけが少し遠くて
それが ちょうどよかった
今でもふと、思い出す
もう会えないのに
その毛並みだけが、胸の奥で揺れている
あの日の毛色は
記憶にしか残らない
でも、たしかにそこにいた
静かな ひとつの命
「波音に耳を澄ませて 」
旅の途中、地図をたたんで
海辺のベンチに身を預けた
潮の香りが 肩にかかり
遠くで 波が言葉を紡いでいる
波音に耳を澄ませて
焦る気持ちを ひとつずつほどいていく
ここじゃないどこかを目指していたのに
今はただ ここにいることが心地よい
風が吹くたび 過ぎた日々がよぎる
別れた人 笑い合った仲間
言えなかった一言たちが
波にさらわれて 海へと消える
誰かに会いに行く旅だったはずが
気づけば、自分に会いに来ていたのかもしれない
靴には砂 ポケットにはレシートと小さな後悔
それでもこの風景の中では
どれも旅の記録として、許せる気がした
波音は 問いかけでも答えでもなく
ただ、そこにあり続ける存在
だからこそ、私は安心して
静かに、自分と向き合える
そろそろ行こうか
まだ道の途中だけれど
今なら 歩き出せる
波音に耳を澄ませて
心の旅は 続いていく
「青い風に吹かれて 」
青い風に吹かれて どこまでも
空と大地のあいだで 私は揺れていた
歩いているのか 漂っているのか
その境界すら もう忘れたまま
足元の石は 過去の記憶
すれ違う人は 未完の物語
誰かの笑顔をポケットに忍ばせ
知らぬ地平を そっと踏み出す
旅には地図がない
あるのは 選ばなかった道への名残と
選んだ道の先にある 風の音
涙がこぼれた日も
嬉しさに言葉を失った夜も
すべて風が運んでくれた
忘れぬようにと 胸の奥に残して
ときに風は冷たく
背を押すどころか 立ち止まらせた
それでも私は歩いた
それでも それだから 歩いた
この道の終わりを知らなくていい
たどり着かなくても構わない
大切なのは 風が吹いていること
私がそれを感じられること
青い風よ、
今日も私を連れていって
心の奥にしまった願いの場所へ
まだ名もない 明日という名の岸辺へ
どこまでも、どこまでも
風に吹かれながら――私は旅をしている
「進歩の影」
私たちは天を突くビルを建てた
だが、気は短くなった
道を広げ、車を早く走らせる
けれど視野は、どこまでも狭く
金を払い、物を買う
けれど心には何も残らない
大きな家に住みながら
家族とは、小さな声でしか語れない
便利さに囲まれているのに
「時間がない」と呟いてばかり
専門家が増えても
解けない謎は、さらに積もっていく
薬の数は日々増すけれど
健やかな笑顔は、減ってゆく
――進んだのは技術だけか
――豊かになったのは、表面だけか
私たちは何を得て
そして何を、失ったのだろう