YUYA

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4/13/2025, 2:40:58 PM

『罪の名を呼ぶ教会で』

――第一章「雪の下で待つ人」続き



彼女の言葉が空気を割ったあと、しばらくのあいだ、沈黙が降りた。

「私は、人を殺した。」

普通なら、その一言で逃げ出してもおかしくなかった。
けれど僕は、逃げなかった。というより、逃げる気力すらなかったのかもしれない。

教会の中は、外よりも静かだった。
風の音すら遠ざかって、時が止まっているようだった。
まるでこの場所が、罪も痛みも飲み込んで、封じているみたいだった。

「……怖くないの?」
彼女がそう言った。
僕に背を向けて、ロウソクの残骸を指で弄びながら。

「わからない」と僕は答えた。
「怖いっていうのも、最近よくわからなくて。
 でも……君のこと、ちゃんと知りたいと思った」

少女はゆっくりと僕の方を振り向いた。
その目は、泣いてもいないのに、どこか濡れて見えた。

「名前、教えてくれる?」

「……律。栗原律」

「律くん。……私は茉白。白い真実って書いて、ましろ」

「皮肉な名前だね」と僕は言ってしまった。
でも、彼女はふっと小さく笑った。
それが、どこか救われたような笑みに見えて、僕の胸が少しだけ熱くなった。

「ねえ、律くん」
彼女は床に敷いた古い毛布を指差して、言った。
「そこ、座って。きっと、もうすぐ雪が強くなる。……今日は泊まっていって」

泊まる? この場所に? この、人を殺したという少女の傍に?

けれど、もう一度教会の外に出て、冷たい夜の中に戻る気にはなれなかった。
誰にも見つけられずに消えたかったはずなのに、
なぜだか今、ここにいてもいいような気がした。

僕はゆっくりと茉白の隣に腰を下ろした。
彼女の髪が、少しだけロウソクの香りを纏っていた。

その夜、僕たちは何時間も話した。
時には沈黙しながら、それでも、
“話す”という行為を通して、
少しずつ、少しずつ、自分を思い出していった。

4/13/2025, 4:48:53 AM

『罪の名を呼ぶ教会で』

――第一章「雪の下で待つ人」


「死にに来たの?」

その言葉は、まるで冷たい水のように、僕の胸に落ちた。
熱を奪うのではなく、麻痺していた感情を一瞬で覚まさせるような冷たさだった。

なんでそんなことを、あんなに静かに言えるんだろう。
なんで、そんなに当たり前のように。

僕はまだ、ちゃんと決めていなかった気がする。
ただ、歩き疲れて、寒くて、どこにも帰りたくなくて、
気づいたらここに来ていただけで――
「死にたい」なんて、そんな強い言葉を使えるほど、
僕の中には確かなものなんてなかった。

でも、「生きたい」なんて言葉も、もうとうの昔に失くしていた。

僕は何も答えられずに、ただ立ち尽くしていた。
少女は、動かない。こちらに歩み寄りもしないし、追い出そうともしない。
まるで、ずっとそこにいることが自然で、
僕が来ることも、予感していたかのような眼差しだった。

どこかで見たことがあるような瞳だと思った。
テレビの画面越しに見る戦場の子どもたち、
誰かを亡くした人の目、
あるいは、昔、鏡に映っていたはずの自分の目――
そういう類いのものだった。

怖かった。でも、逃げなかった。
たぶん、逃げる理由もなかった。

「……君は、誰?」

かろうじて出せた声は、自分でも情けなくなるほど弱かった。
でも、それでも話したかった。
話すことが、生きてることの証明みたいに思えたから。

彼女は少し間を置いて、ふと目を伏せた。
そして、低く、乾いた声で言った。

「……私は、人を殺した」

心臓が、どくんと跳ねた。

でも――怖いと思うよりも先に、
なぜか、「ああ」と、納得するような感覚があった。

そうか。
この静けさは、その重さだったんだ。
人の命を奪ったことがある人間だけが持つ、
消えない沈黙の色だったんだ。

僕は、立ったまま、何も言えなくなった。
でもその沈黙は、もう寒くなかった。

4/12/2025, 8:35:48 AM

『罪の名を呼ぶ教会で』

――第一章「雪の下で待つ人」



足元の雪が、ざくり、と音を立てた。
白と灰の世界を、ひとりで歩いている。
冷たいのに、痛くない。感覚がもう、遠い。
そんなことに気づくのは、ふと立ち止まってしまったときだった。

人生の終わらせ方なんて、本当は知らない。
ただ、「もういいや」と思っただけだった。
家に帰らず、誰にも行き先を告げずに、
気づけば山の中を彷徨っていた。

そして、そこにあったのは、
黒く、ひっそりとたたずむ廃教会だった。

屋根には雪が積もり、十字架も傾いている。
扉は半分外れ、まるで「どうぞ」と言っているように思えた。

ここでいい。
ここなら、誰にも見つからない。
誰にも迷惑をかけない。
そんな風に思ったのは、ある種の自己満足だったかもしれない。

扉を押すと、軋んだ音とともに冷たい空気が流れ込んできた。
でも、その中に、ほんのわずかだけ、温もりの気配があった。

――人の、気配だ。

「……誰?」

声がした。
少女の声。
静かで、乾いていて、でも、何かを閉じ込めている声だった。

驚いて振り返ると、
奥の方、倒れたベンチの影から、
黒い上着を羽織った少女が、こちらを見つめていた。

その目には、驚きも、警戒もない。
ただ、ずっとそこにいたような、そんな目。

「……死にに来たの?」

彼女はそう言った。
まるで、すでに何人もの“そういう人”と出会ってきたかのように。

僕は何も答えられなかった。
なぜならその問いは、まさしく、
僕自身がまだ言葉にできなかったことだったからだ。

4/6/2025, 10:51:26 AM

『道のまにまに、風のままに』
――風来坊・独白


名など要らぬと思うようになったのは、いつの頃からだったか。
江戸の世に生きる者の多くは、どこに生まれ、何を継ぎ、誰に仕えるかが定められている。
だが私は、風のように生きると決めた。
どこかに属することなく、誰に囚われることもなく。
だから名は告げぬ。尋ねられても、笑ってごまかすのが常だ。

今朝は、峠道を歩いた。
山桜が咲いていて、すれ違った猟師が「今年は遅咲きだ」と言っていた。
風が心地よい。
何も考えず、ただ脚の赴くままに歩く――それだけのことが、今の私にはちょうど良い。

昼になり、石の上で握り飯を食った。
塩のききすぎた梅干しに顔をしかめながら、それでも幸せを感じている自分がいる。
山の上には何もないが、だからこそ空が広くていい。

峠を越えると、小さな村が見えた。
こういう村は、名も地図にも載らぬけれど、実にいい匂いがする。
薪の香り、煮炊きの香り、人の暮らしの音――
ああ、生きているな、と感じるのは、こんな場所に出くわしたときだ。

村の端に、小さな茶店があった。
老婆が団子をこしらえていて、私を見るなり声をかけてくれた。

「旅のお方、団子でもいかがかね。」

こういう出会いに礼を尽くすのが、旅人の作法というものだ。
ありがたく一串いただき、縁側で茶をすする。

そこへ現れたのが、一人の娘だった。
目が澄んでいた。
物珍しげに私を見て、老婆に何か囁かれて、少し頬を染めたのが印象的だった。

「また、明日もいらしてくれますか?」

そう聞かれて、少し迷った。
気持ちが揺れる。
けれど私は、どこにも留まれぬ身。
それを説明することなく、こう言った。

「風は、どこにでも吹く。気がついたら、また君のところへ行っているかもしれぬ。」

嘘ではない。本当のことを、ただ遠回しに言っただけだ。

その夜、村は祭りで賑わった。
私は遠くから、笛や太鼓の音を聞いた。
輪の中に入ることもできたかもしれぬ。
けれど、私は輪の外から眺めるほうが性に合っている。

夜が明ける頃、私は村を出た。
別れの言葉もなく。
けれど、せめてもの礼に、あの娘に小さな風車を残した。
竹でこしらえた、回るたびに鳴る風の声。

私は、今日も歩く。
道のまにまに、風のままに。
行き先など、決めていない。

けれど、不思議なものだ。
時折、あの娘の瞳を思い出す。
人に名前を明かさぬはずの私が、ふと、
――名を呼ばれてみたいと思った。

3/27/2025, 9:26:52 AM

『虹の小径(こみち)』


七色の虹の トンネルをくぐる
光は音になり 音は夢になる
赤は情熱の風 私の背を押し
橙は笑う陽だまり 小さな希望を包む

黄は忘れかけた手紙の匂い
緑は遠くの森の囁き
青は誰かの瞳に似た静けさ
藍は夜の深さに染まり
紫は約束を抱いて揺れる

靴音はやがて消え
私はただ 光と影の間を漂う
時間も名前もない世界で
あの頃の私に そっと出会う

虹の果てには 何もない
それでも私は 歩いてゆく
七つの色に 心を委ねて
もう一度 自分を取り戻すために

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