『道のまにまに、風のままに』
――風来坊・独白
名など要らぬと思うようになったのは、いつの頃からだったか。
江戸の世に生きる者の多くは、どこに生まれ、何を継ぎ、誰に仕えるかが定められている。
だが私は、風のように生きると決めた。
どこかに属することなく、誰に囚われることもなく。
だから名は告げぬ。尋ねられても、笑ってごまかすのが常だ。
今朝は、峠道を歩いた。
山桜が咲いていて、すれ違った猟師が「今年は遅咲きだ」と言っていた。
風が心地よい。
何も考えず、ただ脚の赴くままに歩く――それだけのことが、今の私にはちょうど良い。
昼になり、石の上で握り飯を食った。
塩のききすぎた梅干しに顔をしかめながら、それでも幸せを感じている自分がいる。
山の上には何もないが、だからこそ空が広くていい。
峠を越えると、小さな村が見えた。
こういう村は、名も地図にも載らぬけれど、実にいい匂いがする。
薪の香り、煮炊きの香り、人の暮らしの音――
ああ、生きているな、と感じるのは、こんな場所に出くわしたときだ。
村の端に、小さな茶店があった。
老婆が団子をこしらえていて、私を見るなり声をかけてくれた。
「旅のお方、団子でもいかがかね。」
こういう出会いに礼を尽くすのが、旅人の作法というものだ。
ありがたく一串いただき、縁側で茶をすする。
そこへ現れたのが、一人の娘だった。
目が澄んでいた。
物珍しげに私を見て、老婆に何か囁かれて、少し頬を染めたのが印象的だった。
「また、明日もいらしてくれますか?」
そう聞かれて、少し迷った。
気持ちが揺れる。
けれど私は、どこにも留まれぬ身。
それを説明することなく、こう言った。
「風は、どこにでも吹く。気がついたら、また君のところへ行っているかもしれぬ。」
嘘ではない。本当のことを、ただ遠回しに言っただけだ。
その夜、村は祭りで賑わった。
私は遠くから、笛や太鼓の音を聞いた。
輪の中に入ることもできたかもしれぬ。
けれど、私は輪の外から眺めるほうが性に合っている。
夜が明ける頃、私は村を出た。
別れの言葉もなく。
けれど、せめてもの礼に、あの娘に小さな風車を残した。
竹でこしらえた、回るたびに鳴る風の声。
私は、今日も歩く。
道のまにまに、風のままに。
行き先など、決めていない。
けれど、不思議なものだ。
時折、あの娘の瞳を思い出す。
人に名前を明かさぬはずの私が、ふと、
――名を呼ばれてみたいと思った。
4/6/2025, 10:51:26 AM