『罪の名を呼ぶ教会で』
――第一章「雪の下で待つ人」
「死にに来たの?」
その言葉は、まるで冷たい水のように、僕の胸に落ちた。
熱を奪うのではなく、麻痺していた感情を一瞬で覚まさせるような冷たさだった。
なんでそんなことを、あんなに静かに言えるんだろう。
なんで、そんなに当たり前のように。
僕はまだ、ちゃんと決めていなかった気がする。
ただ、歩き疲れて、寒くて、どこにも帰りたくなくて、
気づいたらここに来ていただけで――
「死にたい」なんて、そんな強い言葉を使えるほど、
僕の中には確かなものなんてなかった。
でも、「生きたい」なんて言葉も、もうとうの昔に失くしていた。
僕は何も答えられずに、ただ立ち尽くしていた。
少女は、動かない。こちらに歩み寄りもしないし、追い出そうともしない。
まるで、ずっとそこにいることが自然で、
僕が来ることも、予感していたかのような眼差しだった。
どこかで見たことがあるような瞳だと思った。
テレビの画面越しに見る戦場の子どもたち、
誰かを亡くした人の目、
あるいは、昔、鏡に映っていたはずの自分の目――
そういう類いのものだった。
怖かった。でも、逃げなかった。
たぶん、逃げる理由もなかった。
「……君は、誰?」
かろうじて出せた声は、自分でも情けなくなるほど弱かった。
でも、それでも話したかった。
話すことが、生きてることの証明みたいに思えたから。
彼女は少し間を置いて、ふと目を伏せた。
そして、低く、乾いた声で言った。
「……私は、人を殺した」
心臓が、どくんと跳ねた。
でも――怖いと思うよりも先に、
なぜか、「ああ」と、納得するような感覚があった。
そうか。
この静けさは、その重さだったんだ。
人の命を奪ったことがある人間だけが持つ、
消えない沈黙の色だったんだ。
僕は、立ったまま、何も言えなくなった。
でもその沈黙は、もう寒くなかった。
『罪の名を呼ぶ教会で』
――第一章「雪の下で待つ人」
足元の雪が、ざくり、と音を立てた。
白と灰の世界を、ひとりで歩いている。
冷たいのに、痛くない。感覚がもう、遠い。
そんなことに気づくのは、ふと立ち止まってしまったときだった。
人生の終わらせ方なんて、本当は知らない。
ただ、「もういいや」と思っただけだった。
家に帰らず、誰にも行き先を告げずに、
気づけば山の中を彷徨っていた。
そして、そこにあったのは、
黒く、ひっそりとたたずむ廃教会だった。
屋根には雪が積もり、十字架も傾いている。
扉は半分外れ、まるで「どうぞ」と言っているように思えた。
ここでいい。
ここなら、誰にも見つからない。
誰にも迷惑をかけない。
そんな風に思ったのは、ある種の自己満足だったかもしれない。
扉を押すと、軋んだ音とともに冷たい空気が流れ込んできた。
でも、その中に、ほんのわずかだけ、温もりの気配があった。
――人の、気配だ。
「……誰?」
声がした。
少女の声。
静かで、乾いていて、でも、何かを閉じ込めている声だった。
驚いて振り返ると、
奥の方、倒れたベンチの影から、
黒い上着を羽織った少女が、こちらを見つめていた。
その目には、驚きも、警戒もない。
ただ、ずっとそこにいたような、そんな目。
「……死にに来たの?」
彼女はそう言った。
まるで、すでに何人もの“そういう人”と出会ってきたかのように。
僕は何も答えられなかった。
なぜならその問いは、まさしく、
僕自身がまだ言葉にできなかったことだったからだ。
『道のまにまに、風のままに』
――風来坊・独白
名など要らぬと思うようになったのは、いつの頃からだったか。
江戸の世に生きる者の多くは、どこに生まれ、何を継ぎ、誰に仕えるかが定められている。
だが私は、風のように生きると決めた。
どこかに属することなく、誰に囚われることもなく。
だから名は告げぬ。尋ねられても、笑ってごまかすのが常だ。
今朝は、峠道を歩いた。
山桜が咲いていて、すれ違った猟師が「今年は遅咲きだ」と言っていた。
風が心地よい。
何も考えず、ただ脚の赴くままに歩く――それだけのことが、今の私にはちょうど良い。
昼になり、石の上で握り飯を食った。
塩のききすぎた梅干しに顔をしかめながら、それでも幸せを感じている自分がいる。
山の上には何もないが、だからこそ空が広くていい。
峠を越えると、小さな村が見えた。
こういう村は、名も地図にも載らぬけれど、実にいい匂いがする。
薪の香り、煮炊きの香り、人の暮らしの音――
ああ、生きているな、と感じるのは、こんな場所に出くわしたときだ。
村の端に、小さな茶店があった。
老婆が団子をこしらえていて、私を見るなり声をかけてくれた。
「旅のお方、団子でもいかがかね。」
こういう出会いに礼を尽くすのが、旅人の作法というものだ。
ありがたく一串いただき、縁側で茶をすする。
そこへ現れたのが、一人の娘だった。
目が澄んでいた。
物珍しげに私を見て、老婆に何か囁かれて、少し頬を染めたのが印象的だった。
「また、明日もいらしてくれますか?」
そう聞かれて、少し迷った。
気持ちが揺れる。
けれど私は、どこにも留まれぬ身。
それを説明することなく、こう言った。
「風は、どこにでも吹く。気がついたら、また君のところへ行っているかもしれぬ。」
嘘ではない。本当のことを、ただ遠回しに言っただけだ。
その夜、村は祭りで賑わった。
私は遠くから、笛や太鼓の音を聞いた。
輪の中に入ることもできたかもしれぬ。
けれど、私は輪の外から眺めるほうが性に合っている。
夜が明ける頃、私は村を出た。
別れの言葉もなく。
けれど、せめてもの礼に、あの娘に小さな風車を残した。
竹でこしらえた、回るたびに鳴る風の声。
私は、今日も歩く。
道のまにまに、風のままに。
行き先など、決めていない。
けれど、不思議なものだ。
時折、あの娘の瞳を思い出す。
人に名前を明かさぬはずの私が、ふと、
――名を呼ばれてみたいと思った。
『虹の小径(こみち)』
七色の虹の トンネルをくぐる
光は音になり 音は夢になる
赤は情熱の風 私の背を押し
橙は笑う陽だまり 小さな希望を包む
黄は忘れかけた手紙の匂い
緑は遠くの森の囁き
青は誰かの瞳に似た静けさ
藍は夜の深さに染まり
紫は約束を抱いて揺れる
靴音はやがて消え
私はただ 光と影の間を漂う
時間も名前もない世界で
あの頃の私に そっと出会う
虹の果てには 何もない
それでも私は 歩いてゆく
七つの色に 心を委ねて
もう一度 自分を取り戻すために
『好きになる理由 ―猫の見た春の日―』
あたたかい午後だった。
縁側に横たわって、ぼくはおばあちゃんの膝を見ていた。
昔より少し細くなって、骨ばった手。でも、その手はいつも優しくて、ぼくの背をなでてくれる。
「ねえ、おばあちゃん」
ふと、ぼくは声をかけた。にゃあと鳴いたつもりが、言葉になっていた。
「女性はさ、男のどこを好きになるの?」
おばあちゃんは驚かず、ただ湯呑に口をつけて、小さく笑った。
「猫って、ほんと不思議ね。そういうことを、聞いてくるんだから。」
ぼくは体を起こして、くるりと尻尾を巻いた。
ただ、知りたかった。人間って、どうして誰かを好きになるんだろう。
「若い頃の私はね――」
おばあちゃんの声は、懐かしい風みたいだった。
「かっこいい人が好きだったのよ。黙ってても凛としてて、周りから一目置かれるような人。でもね、結婚したのは、真逆だった。」
おばあちゃんの目が、遠くを見ていた。
その目が、少しにじんでいる気がした。
「背が低くて、おっちょこちょいで、手が不器用で。でもね、いつも私の心配をしてくれた。私の好きな花を、こっそり覚えて買ってきてくれたり、足が痛いって言えば、黙って足を揉んでくれたりね。」
ぼくは、おばあちゃんの膝にそっと頭を乗せた。
その優しい手が、またぼくの背中をなでる。
「でもね、気づくのが遅かったの。
私、その人がもういなくなってから、やっと気づいたのよ。
私が本当に好きだったのは、格好じゃなくて、あの人のぬくもりだったって。」
風が吹いて、桜の花びらが一枚、おばあちゃんの白髪に落ちた。
ぼくは聞いた。
「おばあちゃん、今でも、その人のこと……好き?」
おばあちゃんは、少し笑って、うん、と頷いた。
「ええ。今でもね。
誰よりも、あの人の声を、夢で聞きたいって思ってるのよ。」
ぼくはそのまま、目を閉じた。
おばあちゃんの膝の上、春の陽の中、ぬくもりの記憶の中で。
この人が生まれ変わったら、またあの人と出会えますように。
もし出会えなかったら、ぼくがもう一度、そばにいて、こう聞いてあげる。
「ねえ、おばあちゃん。女性は男のどこを好きになるの?」
そのたびに、おばあちゃんはまた、あの人のことを思い出すだろう。
ぼくはそれが、ちょっとだけ誇らしい。