YUYA

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4/6/2025, 10:51:26 AM

『道のまにまに、風のままに』
――風来坊・独白


名など要らぬと思うようになったのは、いつの頃からだったか。
江戸の世に生きる者の多くは、どこに生まれ、何を継ぎ、誰に仕えるかが定められている。
だが私は、風のように生きると決めた。
どこかに属することなく、誰に囚われることもなく。
だから名は告げぬ。尋ねられても、笑ってごまかすのが常だ。

今朝は、峠道を歩いた。
山桜が咲いていて、すれ違った猟師が「今年は遅咲きだ」と言っていた。
風が心地よい。
何も考えず、ただ脚の赴くままに歩く――それだけのことが、今の私にはちょうど良い。

昼になり、石の上で握り飯を食った。
塩のききすぎた梅干しに顔をしかめながら、それでも幸せを感じている自分がいる。
山の上には何もないが、だからこそ空が広くていい。

峠を越えると、小さな村が見えた。
こういう村は、名も地図にも載らぬけれど、実にいい匂いがする。
薪の香り、煮炊きの香り、人の暮らしの音――
ああ、生きているな、と感じるのは、こんな場所に出くわしたときだ。

村の端に、小さな茶店があった。
老婆が団子をこしらえていて、私を見るなり声をかけてくれた。

「旅のお方、団子でもいかがかね。」

こういう出会いに礼を尽くすのが、旅人の作法というものだ。
ありがたく一串いただき、縁側で茶をすする。

そこへ現れたのが、一人の娘だった。
目が澄んでいた。
物珍しげに私を見て、老婆に何か囁かれて、少し頬を染めたのが印象的だった。

「また、明日もいらしてくれますか?」

そう聞かれて、少し迷った。
気持ちが揺れる。
けれど私は、どこにも留まれぬ身。
それを説明することなく、こう言った。

「風は、どこにでも吹く。気がついたら、また君のところへ行っているかもしれぬ。」

嘘ではない。本当のことを、ただ遠回しに言っただけだ。

その夜、村は祭りで賑わった。
私は遠くから、笛や太鼓の音を聞いた。
輪の中に入ることもできたかもしれぬ。
けれど、私は輪の外から眺めるほうが性に合っている。

夜が明ける頃、私は村を出た。
別れの言葉もなく。
けれど、せめてもの礼に、あの娘に小さな風車を残した。
竹でこしらえた、回るたびに鳴る風の声。

私は、今日も歩く。
道のまにまに、風のままに。
行き先など、決めていない。

けれど、不思議なものだ。
時折、あの娘の瞳を思い出す。
人に名前を明かさぬはずの私が、ふと、
――名を呼ばれてみたいと思った。

3/27/2025, 9:26:52 AM

『虹の小径(こみち)』


七色の虹の トンネルをくぐる
光は音になり 音は夢になる
赤は情熱の風 私の背を押し
橙は笑う陽だまり 小さな希望を包む

黄は忘れかけた手紙の匂い
緑は遠くの森の囁き
青は誰かの瞳に似た静けさ
藍は夜の深さに染まり
紫は約束を抱いて揺れる

靴音はやがて消え
私はただ 光と影の間を漂う
時間も名前もない世界で
あの頃の私に そっと出会う

虹の果てには 何もない
それでも私は 歩いてゆく
七つの色に 心を委ねて
もう一度 自分を取り戻すために

3/21/2025, 11:33:21 PM

『好きになる理由 ―猫の見た春の日―』



あたたかい午後だった。
縁側に横たわって、ぼくはおばあちゃんの膝を見ていた。
昔より少し細くなって、骨ばった手。でも、その手はいつも優しくて、ぼくの背をなでてくれる。

「ねえ、おばあちゃん」
ふと、ぼくは声をかけた。にゃあと鳴いたつもりが、言葉になっていた。

「女性はさ、男のどこを好きになるの?」

おばあちゃんは驚かず、ただ湯呑に口をつけて、小さく笑った。

「猫って、ほんと不思議ね。そういうことを、聞いてくるんだから。」

ぼくは体を起こして、くるりと尻尾を巻いた。
ただ、知りたかった。人間って、どうして誰かを好きになるんだろう。

「若い頃の私はね――」
おばあちゃんの声は、懐かしい風みたいだった。

「かっこいい人が好きだったのよ。黙ってても凛としてて、周りから一目置かれるような人。でもね、結婚したのは、真逆だった。」

おばあちゃんの目が、遠くを見ていた。
その目が、少しにじんでいる気がした。

「背が低くて、おっちょこちょいで、手が不器用で。でもね、いつも私の心配をしてくれた。私の好きな花を、こっそり覚えて買ってきてくれたり、足が痛いって言えば、黙って足を揉んでくれたりね。」

ぼくは、おばあちゃんの膝にそっと頭を乗せた。
その優しい手が、またぼくの背中をなでる。

「でもね、気づくのが遅かったの。
私、その人がもういなくなってから、やっと気づいたのよ。
私が本当に好きだったのは、格好じゃなくて、あの人のぬくもりだったって。」

風が吹いて、桜の花びらが一枚、おばあちゃんの白髪に落ちた。

ぼくは聞いた。
「おばあちゃん、今でも、その人のこと……好き?」

おばあちゃんは、少し笑って、うん、と頷いた。

「ええ。今でもね。
誰よりも、あの人の声を、夢で聞きたいって思ってるのよ。」

ぼくはそのまま、目を閉じた。
おばあちゃんの膝の上、春の陽の中、ぬくもりの記憶の中で。

この人が生まれ変わったら、またあの人と出会えますように。
もし出会えなかったら、ぼくがもう一度、そばにいて、こう聞いてあげる。

「ねえ、おばあちゃん。女性は男のどこを好きになるの?」

そのたびに、おばあちゃんはまた、あの人のことを思い出すだろう。
ぼくはそれが、ちょっとだけ誇らしい。

3/16/2025, 1:24:47 PM

『街角の天体観測』



「ねえ、知ってる? この街って、実は宇宙船だったんだよ」

 唐突にそんなことを言い出したのは、幼なじみの澄花だった。放課後、商店街の端っこにある団子屋の軒先で、二人並んで座っているときのことだった。

「え? 宇宙船?」

「そう。気づいてないだけで、私たちはずっと宇宙を旅してるんだよ」

 彼女は自信満々にそう言って、冷めた団子を一口かじった。
 よくわからないが、澄花が言うと妙に説得力がある。彼女はこの街で一番の変わり者だったけど、なぜかいつも話に引き込まれるのだ。

「それならどこに向かってるのさ」

「そりゃあ、どこか遠くの星に決まってるじゃん。ほら、あそこの時計屋さん、じつは宇宙の時刻を測るための基地でさ」

「あそこ、ただの修理屋だよ」

「いやいや、見た目はそうだけど、本当は……」

 また始まった。澄花の「この街は何かの秘密を隠している」シリーズ。昨日は「実はこの商店街は忍者の訓練場だった」とか言っていた気がする。

 まあ、そんな話を聞きながら団子を食べるのも悪くない。

 

***

 

 この街は、時間がゆっくり流れる。いや、止まっているようにさえ感じる。

 朝になれば、学校へ行って、授業を受けて、帰りに駄菓子屋でお菓子を買う。
 夕方になると、商店街は少しだけ賑やかになり、夜には家の窓からテレビの明かりがこぼれる。

 毎日が、昨日と同じようで、ほんの少しだけ違う。そんな日々の中で、澄花はいつもふざけたことを言って、私を笑わせてくれる。

「いつか、本当に宇宙に行ってみたいな」

 ある日、商店街の屋上に寝転がって、彼女がぽつりとつぶやいた。

「行けるわけないじゃん」

「そんなことないよ。行きたいって思えば、どこへだって行ける」

「……そういうもの?」

「そういうもの」

 彼女はそう言って、星空を見上げる。

 私はそんな彼女を見つめていた。

***

 

 澄花はいなくなった。

 ある日、突然に。

 引っ越しだった。聞いたときは信じられなくて、彼女の家まで駆けつけたけど、もうもぬけの殻だった。

 商店街を歩いても、どこにも澄花はいない。団子屋の前で座ってみても、隣には誰もいない。時計屋の前を通っても、もう「宇宙の時刻」とやらの話は聞こえてこない。

 街は変わらないままだった。

 だけど、私は変わってしまったのかもしれない。

 澄花がいないと、街はただの街だった。

 「この街は宇宙船なんだよ」

 そんな彼女の言葉を、ふと思い出す。

「だったら、きっと今もどこかを旅してるんだよね」

 どこか遠くの星に向かって、見えない宇宙船の中で。

 私はそっと、空を見上げた。

 いつもと変わらない夜空なのに、澄花がいた頃より、少しだけ遠くに感じた。

3/16/2025, 2:24:04 AM

『心の庭に蒔く種』


静かな時の中で
人はふと立ち止まる
遠い昔を想い
もしも、と自らに問いかける

14世紀に生まれたとしても
きっと僕は僕であっただろう
指先で言葉を紡ぎ
木に触れ、土に触れ
物語を語り続けたに違いない

時代は巡りゆく
けれど変わらないものがある
苦しみも、迷いも
幸せを願うその心も
幾度も誰かが通った道

だからこそ知識を求め
だからこそ環境を育て
心地よい居場所を
自らの手で描いてゆく

小説を書くために
物語を愛するために
新しい風景を
心の庭に少しずつ植えていく

焦らず、ゆっくり
環境を育てよう
その種は、いつか
鮮やかな花を咲かせるだろうから

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