愛があればなんでもできる?
もちろん、できない。
具体的に言うと愛を持たないことができない。
愛を持たない過程の苦しさを、美しさを、経験することができない。
愛を持たなかった孤独な過去に寄り添うことができない。
愛があったとして、その愛を持ち続けることができない。
一人ぼっちでふと醒めたとき、自分一人分の愛を思い出して地にそっと足がつくことがあるだろう。これができない。
愛は状態。側面。歴史。軌跡。
なんでもなんてできるわけもなく、できる必要もない私たちの立ってる場所が愛と呼ばれてるだけ。
愛を叫ぶ。
気づいたら家に帰らずに夜を迎えていた。
家に帰ると怒鳴られて殴られて、なのに私が妹の世話をしないといけないから。
怒鳴られて殴られるのはいつも私なのに、いつも妹が先に声を上げて泣き始めて、私がなだめないといけないから。妹が私から涙まで奪っていくから。
そうして、気がついたら帰れずに夜になっていた。初めてのことだった。
妹は怒鳴られない。妹は殴られない。妹は買い与えられ関心を持たれる。
妹が泣いたら私のせいなんだろうな。
私がいなければ全て解決なんだろうな。
ずっと思っていたけど心の底で諦めきれなかった。理解したくなかった。私が私だから、愛されないなんて。いようとしていることが、いけないことだなんて。
家にいられなくて街を歩いても、私の居場所がどこかにあるわけじゃない。諦めなきゃいけないものの広さ、深さ、それがもうずっと昔から私の手に負えなくて、一つ諦めたら夜の海に飲み込まれそうで。
涙が頬を伝ったと思ったけど、触れてみると泣いてなかった。涙は妹にとられたから。幻肢痛みたいに、とっくに失われた涙の感覚だけが残っている。その涙のあることを証明するすべもなければ、その証明が意味を持つ場所も私にはない。
夜闇が私にとってだけ密度を濃くし、私が進むことも戻ることも拒んでいた。存在すべきでない存在を、空間が互いに押し付け合うみたいに。
通りがかった小さな公園の柱にかけられた時計もまた、闇に身を隠していた。他の人には見えて、時刻を明らかにしているのかな。所詮、仮に2時を指していても私にとっての2時ではないのだろうし、私にとっての2時は他の人にとって意味をなさないのだろう。私は疲れてベンチに座った。夜の公園が、私を邪魔者として認識するのを感じる。でもどこにも私の場所はなくて、動けなかった。
時間の感覚がないまま、ひりつく空間からの拒絶を感じながら、私は座っていた。
どれほど経ったか、人か何かが近づいてくるのを感じた。いつでもすぐに自殺できる準備をするべきだったな、仮にそれが私に許されているのなら。そう、かすかに思う。
ややあって、「ぉっ……」という声が間近から聞こえて、私の全身がこわばった。
妹だ。妹が来ている。言葉になっていないが、うんざりするほど聞いた声でわかる。
しかしどこか様子がおかしい。何かを言おうとして喉に詰まるような発声を繰り返している。
わけもわからず暗闇の中の妹の輪郭を見ていると、妹は泣きはじめて、泣きながら何かを繰り返し言った。書き取るなら「ぉぃぇんんぇ、ぅぅぅ」のような。
意味をなさないまま、次第に声が大きくなる。公園にだけ響き渡る程度の、しかし地をひきずるような不気味な叫び。
その妹の形をした得体の知れない存在が私に近づいて、妹みたいに抱きつこうと手を伸ばしてくる。私は身の毛がよだつ思いがして手を思いっきり振り払って逃げ出した。
妖怪でも、妹でも、どうせ私には同じだったんだから、もう別になんでもよかった。走りながら怒りが湧いてきて、歩き始める。
なんの存在だか知らないけどこんなところまで来て。
なんなら思いっきり突き飛ばしてやればよかった。
だって妖怪でも妹でもどうせ私には同じなんだから。他人でも家族でも。街でも家でも。一時でも二時でも。
何もかもが私のためじゃないんだから。あの子には他にいくらでも味方がいるんだから。
妹はその日から失語症になった。
病院にいる妹と顔を合わせないまま、私は追い出されて親戚の家に送られた。
そこでは殴られない代わりに食事が抜かれた。そういう日は、あの液状の闇の中で何かを叫んでいた、妹の形をした輪郭と二人っきりだったあの夜の公園が否応なく脳裏に蘇った。
あのとき何を言っていたのかな。
言葉が出なくなって、助けを求めてたんだろう。
なんの助けも得られない私に、いつもみたいに助けろと言っていたんだろう。
私の涙を奪った妹から、私は言葉を奪ったのかな。
あの人たちから愛されて、与えられてる分際で、私から涙を奪うからだ。
私は泣いていた。
もう妹と会うことはないだろう。
夜の海に落としたものは二度と見つからないのだから。
ジョウモンシロチョウツガイという虫が沖縄にいるらしい。
なんか、ふたつの異なる深海魚を組み合わせた知恵の輪みたいな複雑で不快な形をしていて、遠くに藻か何かが道端に落ちてるのかと思って近づいたら、うねって歩いていて、気持ち悪いらしい。
他の虫の例にもれず、小さい図体にみちみちに詰まっていて、そのくせ柔らかくて簡単に壊れてなにかの汁を撒き散らすらしい。そういうのしんどいよね。
沖縄のある島では、子供に「悪いことばかりすると死んだらダロボンに生まれ変わる」と教えるらしい。ちなみに、ダロボンとはその地域でのジョウモンシロチョウツガイの呼び名らしい。
あと、ジョウモンクロチョウツガイというのもいるらしい。
嘘です。しょうもな。
ここまで読んでくれたあなたは多分いい人ですね。来世はデイベイになれるかもしれませんね。
デイベイというのは……ジョウモンキチョウツガイというのがいて………なんか…沖縄の…
多くの場合、初恋の日がいつかなんて人は覚えていないだろう。
でも私は覚えている。
あれは、私が高校生のとき。母の癌が見つかり緊急入院になった日だからだ。
母はいわゆる「毒親」だった。
女手一つで私を育てながら過重労働をしていた母は、いつも不機嫌でいらいらしていて、些細なことで私をぶった。殴ったり髪を引っ張ったりする理由はなんでも良かった。
時々お酒を飲むと、ずっと一人ぼっちの子供みたいに泣いた。母がそうやって泣くときは、私は母を一人にして置いていく世界と一体に溶け合わされて消えてなくなるみたいな気持ちになるから、ぶたれるよりもずっと嫌だった。
泣いたあと、母は必ず一通りの家事をした。済ませている掃除ももう一度したし、乾かしていた皿ももう一度洗い直した。私はきっと母にとって深刻な意義を持つこの儀式の間、消えてなくなれないことを心から悔やみながら、いつも部屋の端で小さく座って物音を立てないようにしていた。
その母が入院したという連絡を学校で受けた私は、その直前まで「ついに人を好きになったかもしれない」なんて考えていたことを完全に忘れて、喪失の恐怖に血の気が引いてその場に座り込んだ。
母の愛を喪失する恐怖じゃない。これまで母からもらえなかった愛が本当はいつかもらえるかもしれないという可能性、いつか私の存在を母に喜んでもらえるかもしれないという可能性、いつか私のせいで幸せになれなかった母が新しい幸せを見つけられるかもしれない可能性、そうした全ての馬鹿げた夢の喪失を、頭が理解するよりも先に身に刻まれた何かが理解したんだ。
母は結局、命に別条はなかった。保険がおりて、しばらく機嫌が良かったくらいだ。
癌でみんなが必ず死に至るわけじゃない。そんなこともわからないくらい、私は知らないうちに夢を溜め込んで、喪失を恐れていた。
私が好きになった気がしたあの人のことを思い出したのは、母の入院から土日を挟んで週明けに学校で見かけたときだった。
その瞬間、母の入院を知ったときの全身の慄きが蘇ってきて、私はその場にうずくまって吐いた。
全然私と関係ない。
保健室の白い天井を見上げながら、そう思って愕然とした。
かっこいいとか。優しそうとか。謙虚で控えめで実は努力家だとか。そんな彼の隣を歩いて、私は彼のことをよく知って、彼は私のことを一番見てくれてとか。そんな小さな夢想の全てが私の血と肉と歴史と何の関係もなくて、遠くて、目障りで、私はその深すぎる溝の前で、一人で失恋した。
ふと母が近くにいる気がしたけど、自分が母と全く同じように泣いているだけだった。
だから、私は初恋の日のことをよく覚えている。
私が何を望んでいて、何を得ることができないのか。
それがわかった日だったから。
明日世界が終わるなら、まずは今日一日祈りを捧げよう。
世界が終わらないのに終わらなきゃいけなかった全ての愛しき過去の命へ。
教えてあげるんだ。もう大丈夫だよ、世界は終わるよ、これでもう誰かだけが見捨てられたりしないよって。もう安心して眠りにつけるんだよって。
そして世界の終わりと命の終わりを同じくできる、およそ考えついたこともないほどの僥倖に涙でもって感謝を。
そして。明日一日はお祭り騒ぎだ。
つい昨日まで崇められていたすべての偶像がただちに打ち捨てられ忘れ去られたこの世界で、生きる人の数だけ神が祭られる、最初で最後で最高の、正真正銘のお祭りだ!
まだ死にたくない人、欲の限りを尽くしたい人。
終わるって信じない人、誰かに会いたい人、来ない未来を嘆く人。
叫ぶ人、盗む人、殴る人、燃やす人。
約束を守れなかった人、涙を流す人、行方をくらます人、愛を伝える人(興醒めの冒涜者がよ!)。
全ての宗教が打ち切り漫画みたいに成就して、思想の松葉杖をついてきた人たちは両の足で泥まみれで走ることを思い出すだろう。
地平が暗転して、雲の内側に星空が見えて。私たち痴れたる人類共が光と呼ぶこともあたわないほどの、つまり、人類がどれほど驕ろうともわからないほどのもっと広い場所で、人類の細胞の筆記用具ごときじゃ足りないほどのずっと昔から光だったもの、それを見て私たちは目を失い地に膝をついて。まだ膝があったんだなあって、ちっぽけな誤差ほどの人生で今が一番膝のことを身近に感じるわけ!
さようなら、形而上学的な雲の上について述べてくれたありがたい人生諸哲学。さようなら、私たちの知ってる光について教えてくれた高邁なる先進諸科学!さようならさようなら!
最後に見えて、今後誰も二度と見ることのない光だけが、人類で共有された最後の教えになる。
火に仕えてきた人間が頭でだけわかっていた真理。
私も心のどこかで淡く夢見ていた炎。
それが今や一番痛みによって信じられて、やっと正しかったって証明される。
たったの一瞬、身を切る熱さが名残惜しくて愛おしくて。全部のうち全部、何もかもが終わることがこれほどまでに救いそのものなんだって。きっと燃えてみんなわかるはず。等しく終わるからみんなのことが好きでいられるって。
ああ、終わるから死ぬにすぎない私たちよ。
世界が終わらないのに一人ぼっちで終わっていった、蝋が溶け落ちる今日まで火を注いでくれた、望まず生まれ望まず死んでいった全ての命に、重ねて世界で最後にして最大の敬意を。
本当は、どんな形であれ生と運命の責をたった一人で全うしたあなたたちにこそ、この名誉ある終焉はふさわしかったのに。
ありがとう。本当に…。
同時代を生きたみんな、お疲れ様、ありがとう。みんなのことは嫌いだったけど、終わる定めを同じくする仲間たちに心からの親愛を。
存在してきた全ての存在の約束された安らかな眠りが、永劫に守られ続けますように。
おやすみなさい。ありがとう。