春風に眠る
「全部、夢だと思ったことはない?」
春の湿った空気が肌に張り付く。視界が急に霞んだような気がした。私が返事をする前に、遥は背を向けたまま言った。
「この波の音も水の感触も潮の香りも」
セーラー服の襟がはためく。彼女は膝まで海に浸かっていた。
「───私たちが、ここに存在してることも」
そう言って遥は振り返ったが、彼女の後ろにある太陽のせいで表情はよく見えない。ただ、口元は笑っているように見える。
「だって夢って明晰夢じゃない限り、夢か夢じゃないかなんて分からないでしょう?私たち、自覚していないで夢を見ているかもしれないのよ」
彼女は、裸足で波を静かに踏みつけて、こちらへ向かってきた。私は俯き目をそらす。
スカートのひだが海水の飛沫を吸って重くなっている。私の足は砂浜に吸い付いたように動かない。
「ふたりだけで、同じ夢を見てるの。これはもう運命よ。共鳴しているの」
足音が間近に迫ったとき、遥は私の顔を覗いた。
「ねえ、一緒に夢から醒めない?」
遥は私の手を掴んだ。そして私を、深い深い海へと誘う。
『二人ぼっち』
時空の旅
蒸気機関車の音が頭上を駆け巡り、工場の歯車の音が街に響き渡る。街一帯が大きな建物のよう。今日もスチーム街は賑やかだ。
私は修理に出したお気に入りの懐中時計を取りにいくため、朝早く家を出た。家の目の前の橋から下の工場地帯を見下ろすと、見覚えのある姿があった。あのリュックはきっとギアおじさんだ。ベイおばさんも一緒にいた。橋の階段を駆け下りて、声をかける。
「あれ、おじさん、おばさん帰ってたの?おかえりなさい」
「あら、こんにちは」
「久しぶりだなベイパー。1ヶ月ぶりかね」
「おじさん、その2倍会ってないと思うよ」
「ああそんなにか。すまんな、時空を超えて旅をしてると感覚が狂ってくる」
おじさんとおばさんは時空探検家。おじさん自ら作ったタイムマシンで旅をしている。出身はこの時代ではないけど、おじさん曰く1番過ごしやすいんだそう。
「そうだ、ベイパーこれをあげよう」
お土産話をされながらお土産の品をたくさん貰った。
「おやおやもう時間か。この時代の別の場所に行ってくるよ。街には夜頃戻るかな。では」
「はあい、行ってらっしゃい」
彼女が、今目の前で話している人物が未来からやってきた自分とその夫であると知るのは、彼女が2人と同じ年齢になった時である。
光芒の彼方
今年1年で、僕らの生活は随分と変わった。例えば、すぐ終息すると思われていた未知のウイルスの流行が、多くの人を苦しめた。例えば、僕らの国の外で戦争が起きて、多くの人が亡くなった。例えば、大雨で各地が浸水して、多くの人の日常が変わった。
そして今夜、僕は妹と舟の上。父のカヌーだ。温暖化と異常気象のせいで海面がありえないほど上昇し、ここ東京は新宿・渋谷辺りまでもが海となった。だから、元々海寄りの、僕たちが今いる東京のシンボルタワーがあるあたりは、舟にのっていると目線がマンションの7、8階とほぼ同じになるほどだ。災害から7日間待っても救助が来なかったから、家の食料も尽き、仕方なく僕らは移動することにしたのだ。
街は静かで、人口が非常に減ってしまったことが目に見えてわかる。今のところ、明かりは何処にも見えない。
「お兄ちゃん、あたし、不安だけど、でも、きっとあたらしい場所、見つかるよね」
彗星がひとつ、力強く輝く尾をひいて流れた。
「うん。大丈夫。きっと、いい場所だ」
前へ進んだって、不安や恐怖などの負の感情がさっぱり消え去るわけではない。でも、その先を、未来を目指せるということは、なんて素敵なことだろうか。今は、そう思うようにしている。
「ねえ、お兄ちゃん、空が、きれいだよ」
群青の空の向こう、空と海の境界が光の線を描く。鮮やかな朝日に照らされて、波が一斉に輝きだした。
『1年間を振り返る』
移りゆき、散りゆく
襖が開いた。
「あら、もう来てたの、カエデ、モモ」
カリンはまっすぐな長い髪を靡かせて歩きだす。
「ええ、なんだか落ち着かなくて」
「うん、ひとりだと逆に怖くなっちゃう」
薄暗い部屋、円形の座卓に肘をついてふたりは言った。
「あんたらが思うのも無理ないわ。あんなことがあって…あたしだって、怖いもの….」
そう言いながらカリンはふたりと同じように座布団に座る。それと同時に、再び襖が空いた。
「あ、ユズ」
ユズは、3人がいる座卓の方をじっと見つめ、敷居の手前に立っていた。
「どうしたの?」
とカリンが言うと、ユズは俯き、掠れた声で言った。
「……こんなに減るとは思っていなかった」
ユズは静かに襖を閉め、静かにこちらに歩いてきた。
座ると、スカートをぎゅっと握り、さっきよりいっそう掠れた、震えた声で言った。
「私、怖い….…もし、ツバキたちみたいに───」
襖が開いた。サクラである。円卓の空気が凍りつく。
緩やかにカーブしている長い髪を、行灯が照らす。
「あら、皆さん御機嫌よう。お茶の準備をしてたら遅くなってしまったわ。まあ、そんな、緊張なさらないで。昨日ツバキが"去ってしまった"ことを気にしていらっしゃるの?でもね皆さん、私は、私たちは、ずっと同じじゃいられないのよ。世の中移りゆくものなんだから」
そしてサクラは微笑んで言った。
「さあ、楽しいお茶会を始めましょう」
12月27日『変わらないものはない』
寂しさが凍る前に
また、氷った果実が流れてきた。
「なぁじいさん、1日何回も流れてくるこいつらは何なんだ?」
少年は隣の切り株に座っている老人に訊いた。
「そンなこと言ってないで、はやく掬ってやりなァ」
老人は答えない。少年はため息をついて、果実をすくって、まとめて籠に入れた。そして水の音に見送られて、ふたりは閑静な森を歩いていく。沈黙が続いていた。
小屋に着くと、老人はさっそく鍋に湯を沸かした。少年はいつもと同じように、すくった果実たちを鍋に入れていく。そして氷が溶けるまで煮込むのだ。
「なぁ、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?俺はもう、ここに来て1ヶ月は経つぜ」
老人はロッキングチェアに座っていた。口は開かない。
「おい、この火にかけるのだってなんか意味あんだろ
。俺はそれをちゃんと知ってやるべきなんじゃないか」
少年は老人の目を見据える。観念したように、老人は話し出した。
「───そいつらァはな、死んだ人だ」
「は?」
「心をもう戻れないとこまで、自ら凍らしちまった人だ。ホントはなァ、こうなる前に、お前さんみたく社会の中に孤独を感じたら、勇気だして逃げ場所探したり、もしくはァ誰かが凍りそうな心を溶かしてやらんといけねェんだが……お前さん、そいつらを凍ったまま食べて見ィ、冷たく刺すような、叫びが聞こえそうな味がするさ。だから最後にこうやって心を解かして、美味しい料理にするンだ」
少年はその日、いつもと同じように作った果実のタルトが、いつもと味が違うように感じた。
12月20日『寂しさ』