紙ふうせん

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6/27/2023, 1:06:37 PM

  『ここではないどこか』

アリサが消えた。
不思議なのは、クラスの誰もがアリサのことを全く知らないということだ。

教室の後ろのボードにピンで留めてある入学式の写真を見てみたけれど、たしかにどこにもアリサはいなかった。

アリサといつも一緒だった美紀に聞いたけれど「なあに?奈津子は何を言っているの?」と逆に笑われてしまった。

その夜、夢を見た。
夢にはちゃんとアリサが出てきた。
当たり前のように私はアリサと一緒にいて、笑っていた。

次の夜、また私の夢にアリサが出てきた。
アリサは「ごめんね」と言っていた。

またその次の日の夜、アリサは「私、なんだか違う世界に来ちゃったみたい」と言っていた。

そして、ようやく私はわかった。

アリサは何かの手違いで、寝ている間に違う世界に行ってしまったのだ。

そして、騒ぎにならないように、何故かみんなの記憶から消えたのだ。

でも何故?

何故、私だけはアリサのことを覚えているんだろう?

不思議だった。

でもわかった。

その夜、夢を見た。
吸い込まれるようにどこかに行くのを。

その翌日、入学式の写真から、私の写真も消えていた。

6/27/2023, 8:08:49 AM

   『君と最後に会った日』

美しくも哀しい瞳の貴女は
此の世は美しい、と
つねづね云つていたけれど
その言葉とは裏腹に
違う世界へと
旅立つてしまつた

密やかに降る雨、木漏れ日のさす庭
そこかしこに
貴女の欠片は
まだゐるといふのに

其方の世界も美しいのでせうか

わたくしは
貴女がゐたこの世は
仮初めだつたのだと
やうやく氣づきました

貴女のゐない此の世は
残酷で
哀しみに満ちてゐるといふのに


6/20/2023, 2:36:58 PM

『あなたがいたから』

春の暖かい風が吹き抜ける放課後。
いつものように、優希が走り込みしてるのを、私は校庭の隅で見ている。

私に気づくと、優希が手を上げる。しばらくすると、荒い息遣いとともに、汗をかいた優希が私のそばに座る。保冷バックに入れておいた飲み物を手渡すと「ありがとうな」と言ってみるみるペットボトルの飲み物が減っていく。優希の喉が生き生きと動く。
「あ〜!生き返る!!」と言って、手渡したスポーツタオルでワシワシと髪を拭き顔を拭く。首にタオルをかけたまま、「すみれはこれで帰る?」と聞かれ「うん、手話教室の課題もあるしね」と言うと
「本当にすみれは偉いよな。近所の手話教室に通って高校生の間に手話ペラペラになるんだもんな」と言うので「英語がペラペラならわかるけれど、手話は話さないの」と笑って言い、立ち上がる。

「じゃあ、帰るね、優希もがんばってね」と言って「おう」という声を背中で聞きながら歩き出す。

私と優希は中学生の頃からつきあっている。合わせたわけではないのに、受けたら同じ高校だった。
でも、やっぱり嬉しいな。
歩きながら、顔がつい緩み、前から来た人が、怪訝そうに歩いていく。
(春だから、変なのと会ったと思ったかな)と思うと笑いが込み上げて来る。

信号の所に来たので、歩行者用のボタンを押す。しばらくすると歩行者マークが青になり、ピッポ、ピッポ、と鳴っている。歩き出すと車の影からスピードを出した車が目前だった。避けることも出来ず私はそのままなすすべもなく跳ね飛ばされた。

気がつくと、全身が痛かった。
体が動かせない。何が起きたのか、全くわからなかった。

「すみれ!気がついたの!」お母さんの声がする。首をそちらに向けると、お母さんとお父さんが揃って身を乗り出した。優希もいた。

「私、どうかしたの?」と言うと
「やっぱり覚えてないのね、あなた横断歩道で車に跳ね飛ばされたのよ」
私が?そこでようやく思い出した。

そうだ!青になって渡ってたら、影からスピードを出した車に跳ねられたんだ!
「幸い、対向車のカーナビが動かぬ証拠となって運転してた男は逮捕されたのよ」
一番気になっていたことを聞いた。

「私の体は、特に何か問題はないのよね?」すぐに頷くと思っていた両親の顔がこわばる。私も血の気が引く。
「私の体、どこがどうしたの?!教えて!」すると母が震える声で
「足が」足が何なの?!怖かった。
聞きたいけれど事実を知るのが怖かった。
「下手すると、車椅子の生活になるかもって」と、優希が言った。

「嘘でしょう?!だって、だってさっきまで普通に歩いてたのに、そんなのおかしいじゃない!!」
自分の声が、上ずっているのがわかった。体が小刻みに震えてくる。

「すみれ、落ち着いてちょうだい」
と母に言われ、思わずカッとなる。

「落ち着ける訳ないじゃない!私、もう歩けないかもしれないのに!
やっと、高校生になったばかりなのに!」

騒ぎを聞きつけ、医師と看護師が入ってきた。小さな声で、鎮静剤を、と言うなり、看護師が注射を出した。「私は冷静よ!それにそんなの一時しのぎじゃない!」とまだ叫んでいる私に素早く看護師が鎮静剤を打つ。少しすると体から力が抜け、意識が遠くなる。

私はその時は意識がなく、あとで母から聞いたのだが、父が医師に
「先生、手術で娘は歩けるようにはならんのですか」と聞く。

医師は首を振り「手術でなんとかなるならとっくにしています。あとは娘さんがリハビリをがんばれば、足は動く可能性はあります」父の顔がパッと明るくなる。が、医師が
「一番の問題はこういう場合、本人が自暴自棄になって、リハビリを放棄する事なんです。やる気にさえなれば、根気よくリハビリを続けていけば、どの程度回復するかは、今はなんとも言えませんが、可能性はあります」

優希は唇をかんで考えていた。
自分だったら?がんばって辛いリハビリを続けた先に、必ず良くなるという保証があれば、きっとがんばれる。だけど、それが徒労に終わるかもしれないとわかっていたら、果たして俺はできるだろうか。
まず、心が折れる、そしてリハビリ自体も放棄するかもしれない。

中学の頃から行き来して知っている優希は「おじさん」とベンチに座り込んでいる、抜け殻のような、すみれの父親に声をかける。

「すみれには、リハビリをがんばれば、絶対に足は動くようになり、やがて歩けるようになる、と言うのはどうかな」そこで、父親は初めて顔を上げた。
この数時間で一気に老け込んだような感じだ。無理もない。
まだ高校一年になったばかりだというのに。すみれは何も悪くないのに。母親はぐったりとベンチに座っている。母親は先ほどすみれが注射で寝ている間に、医師に、「私の足をあの子に、あの子につけられませんか!!」と血走った目ですがりついていたのだ。

ちゃんと理性が働いていたら、そんな事言うわけがないのに。
それだけ、気が動転してたのだろう。

「おじさん、俺は本屋に行って体の仕組みの本を買う。そうしたら、足が動く仕組みもわかるはずだ。あとはリハビリをする、理学療法士の本も買ってきて、読んで覚えるよ」と言い「すみれ一人に戦わせない、俺も俺のやり方で戦うよ」

すると、抜け殻のようだった父親が「そうだな」と言った。さっきより目に力が少し戻ってきていた。

「優希君の言うとおりだ、私も娘にだけ辛い思いをさせない。私も自分のやり方で戦うよ」「おじさん」優希が言う。

「君の言うとおりだ。すみれには、がんばれば必ず歩けると、みんなで言って信じよう!そうすればいい方に行くかもしれない、母さんには、落ち着いた時、私から話しておくよ」

「だめだと私達が思ったら、駄目なんだな。信じて、みんなでそれぞれがんばる姿を見ればすみれは、気力を取り戻してくれるかもしれない」

父親の目が生き生きとしてきた。

そうだ、みんなで信じてがんばれば、それはやがて本当になるはずだ!俺も勉強して、リハビリにつきあうさ。優希は力が湧いてくるのがわかった。

優希はまず、陸上部を辞めた。
中学の時から、全国大会にまで出ている優希は、一番の戦力だ。
監督は渋ったが、理由を聞き、わかったと優希の背中を叩いた。

優希にとっても、何より大事だった陸上部を辞める事は断腸の思いだっただろう。監督もまた、なんとかうまくいってほしい、と願わずにはいられなかった。

優希は、人体の仕組みを暗記するほど覚え、今は理学療法士の本で勉強している。

私は、何も希望がなく歩けぬ為に死ぬ事も出来ず、ただ絶望の中、ベッドで声も立てずにひたすら泣いていた。

すると、母が「すみれ、来たわよ!」と元気よく入ってきた。

そして「お母さんね、あなたがリハビリをがんばって歩けるようになるまで、甘い物断ちをする事にしたの」と言ったので驚いた。

そして、無駄よ、歩けないんだから
と背を向けてしまった。
母はあきらめず毎日やってきては、お店にこんなおいしそうなのがあった。でも我慢したわよ!と得意そうに言った。

父も毎日顔を出す。そして言ったのだ。「父さん、運動不足で病院から注意されているだろう?だが、すみれも知っての通り、運動が大嫌いなんだ。でも、すみれがリハビリをがんばって歩ける日まで、ウォーキングを始めたんだよ、まだきついが、なあに、すみれのリハビリを思えばがんばれるさ」と言う。
背を向けながら、これにはちょっと驚いた。

今まであんなに言われていたのに絶対にやらなかったのに。

お父さんもお母さんも、私がリハビリをがんばれば、本当に歩けるって思ってるのかしらね。

一番、元気が出ないのは優希がここ一週間、全然顔を出さないことだ。

もう、歩けない私なんかに見切りをつけたのかも。
そう思うだけで涙が出た。

そして「すみれ、ゴメンな、しばらく来れなくて」とその日の放課後来てくれた。

嬉しいのに、その心と裏腹に嫌味を言ってしまった。

「そうよね、部活に学校生活に、忙しいわよね」しばらく黙っている。
そして「俺、部活辞めたんだよ、もう」さすがにびっくりして起き上がる。

「なんで?!あんなに中学の時からがんばっていたのに!」

「もっと、大切でやりたい事ができたからなんだ」
「部活より、大切でやりたい事?」と言うと照れ臭そうに優希は言う。
「うん、俺さ、すみれがリハビリがんばって歩けるようになるために、何が必要なのかなって考えたら、体の仕組みも知らなくて、本買って、一週間暗記するほど覚えたよ」

「今の俺にできる事は、すみれのリハビリの手伝いくらいだなって思って、歩けるまで、ちゃんと知識を持ってつきあおうと、今は理学療法士の本を読んでいるんだ」

すみれは突然、目の前が揺らいでそして頬をその涙が流れるままに
「なんでみんなで、私がリハビリで歩けるようになると思ってるのよ!歩けるわけないじゃない!それに、リハビリって」と言うと、優希が
「とても痛くて辛い、だよね?」

「俺じゃ駄目か?力にもなれないか?親父さんやおふくろさんももちろん俺も、すみれ一人に苦しい思いをさせまいとみんな、すみれがリハビリをがんばって歩ける日までがんばるって決めているんだ」

いつの間にか、優希の手が私の手を包んでいる。

こんなにも、私のためにみんながんばってくれている。お父さん、お母さん、そして、優希!

「俺さ、すみれが手話をマスターする頃には、理学療法士になりたいって思っているんだ」だから一緒にがんばろうと。

みんなが信じていてくれる。
私が辛く痛いリハビリに耐え、いつか必ず歩けるって。

お母さんは毎日甘い物を二つは食べないといられないのに。

お父さんは、大の運動嫌いなのに。

優希は大好きな部活を辞めてまで勉強して、私が歩ける日まで一緒にがんばろうと言ってくれている。

お母さん、あなたがいるから。
お父さん、あなたがいるから。

そして、そして優希が、あなたがいるから。

「優希、ごめんなさい。一人でいじけていて。でも私、がんばる。苦しい時はみんなも苦しい思いをしてくれているのを思い出して、リハビリがんばる!!」

「すみれ、偉いぞ!みんなで一緒にがんばろうな」優希が優しく抱きしめてくれる。

そして、ひと月が経ち、私はなんとかポールにつかまりガクガクしながらだが、立つ事ができた!

それを見ていた両親はいきなり
「すみれ、すごいぞ、バンザーイ!!」と大声でバンザイをして理学療法士さんに注意されていた。

優希はいつも、学校が終わると毎日来てくれる。そして理学療法士さんに質問したり、こうしたら、だめですか?などと言い、優希君、理学療法士になったら、ここに就職してよ、と言われるようになっていた。

両親と私の絆は以前より強くなったと感じているし、素直にお礼が言えるようになった。

優希が、優希の存在がやはり一番の支えだ。少し先でまっすぐ私を見る優希、待っていてね。あなたがいるから、いつかそこまで歩いて胸に飛びつくから。


6/18/2023, 12:37:18 AM

『未来』

未来、という言葉には、何かよくわからないが、すごい発明があったり、信じられないくらい便利になったり、自分の事なら、そう、将来の結婚相手と出会っていて、もしかしたら結婚して、かわいい子供がいて、子猫がいて、なんてポジティブな事ばかり浮かんで来る。

だけど、十年前の自分からしたら、今はそういう『未来』のはずなのに、全然、不思議なほど何も代わり映えもしない毎日を送っている。

言葉自体が、魔法の様に一人歩きしている気がするのは私だけだろうか。

そういう事を親友の加奈子に話すと、「美和子が未来に夢を求めすぎてるんじゃないの?」とアイスティーのストローから唇を離し、私に言う。

私からしたら、もうかれこれ、十五年くらいの間、お店で飲むのは夏でも真冬でも、ひたすら馬鹿の一つ覚えのように、アイスティーを飲んでいる、可奈子の方が十五年前から全く変わらず、おかしいんじゃないの?と思える。

私と可奈子は高校生からの親友だ。
だんだん周りが結婚したり、恋人ができ、一緒に暮らしている、と聞くと、どこで知り合い、そういう事になるのか、男性に縁がない私達からすると、不思議な気がする。

私は、耳鼻科に勤めてもう十年以上経つ。患者さんの多くは耳が遠くなったおじいちゃん、おばあちゃんが多い。出会いなど、あるはずがない。

可奈子はこれまた整形外科に勤めている。ごくたまーに、足を骨折した若い人が来るらしいが、痛みで可奈子の事なんて見ていられないらしい。たいていは、私と同じく腰が痛い、膝が痛い、といったおじいちゃん、おばあちゃんが患者さんの九割を占めるらしい。

二人とも失敗したかも、と思うが、三十歳を何年か前に過ぎた身で、今更職探しはかなり難しい。という訳で、こうして一緒に休みの日は愚痴をこぼしながら二人で気楽に過ごすことが多い。

ある日、おばあちゃんの手を引いて若い人が一緒に耳鼻科に来た。
ちょっと足が不自由らしい。
「車椅子、持ってきましょうか?」と聞くと、若い人のほうがびっくりしたように振り返り、「あ、すみません、じゃあお借りします」と言って、「ほら、ばあちゃん足上げて」と優しく乗せている。(お孫さんかな?)と思いながら、そんなに混まないので、すぐに順番になった。
「柏木ヨシさん」と呼ぶと、先ほどの若い人が「はい」と言って車椅子を押しながら、診察室に入る。

「どうしました?」何千回といったであろう言葉を、先生は言う。
「先生、この頃よう聞こえんで困りますわ」とおばあちゃんが言う。
付いてる若い人が「テレビの音がやたら最近大きいんです」と言う。

「まあ、年すりゃあ、耳も遠くなるなあ」と先生がのんびり言い、私に「聴力検査だな」と言った。

私はそのおばあちゃんに、しゃがんで、車椅子の目線にあわせて、はっきりとした口調で「ヨシさん、どのくらい聴こえるか、調べましょうね」と言い、付き添いの人に「検査室は狭いので入り口から椅子までは支えてあげてもらえますか?」と言う。わかりました、とその人は言って、狭い検査室になんとか手を引いて椅子に座らせる。
「音を流しますので聴こえたらボタンを押してくださいね」と言う。

おばあちゃんは、ひどく真剣な顔で聴き漏らすまい、とボタンを持っているが、押したのはかなり少なかった。

先生の前にまた車椅子で行くと、先生が「補聴器使ったほうがいいなぁ」と言った。「両方聴こえてないから両耳だな、町によく看板が出ているから、この紙見せて買ってはめれば、よく聴こえるからね」と先生が言い、私を見たので「はい、いいですよ」と言って待合室まで案内する。
すると、付き添いの青年が「あの、かなり高価なんですか」と言うので「高いものからかなり安いものまであります。高ければいいというわけではないので」と言うと、ちょっとためらったあと「こんな事、お願いするのは図々しいのですが、一緒に選んでもらえませんか?僕も全然わからなくて」と、とても困った顔をしていた。

それはそうだろう。眼鏡と違って、端で見ている人にはわからないし、悪質なお店は高いものを売りつけてくる。

幸い、うちは祖父母の補聴器は私がついていって選んだので、だいたいわかる。本人にも、どの程度聴こえるのがいいのかは、なかなか難しい。

だから私は「いいですよ。いつがいいですか?平日なら明日の水曜日の午後とあとは土曜日の午後と日曜日なら行かれます」と言う。

「じゃあ、明日の午後でいいですか?」と言うので「はい、大丈夫ですよ」と言ってから、「私は小林美和子と言います」と言うと、その青年は慌てて「す、すみません、僕は柏木陽介と言います、小林さん、どこにお住まいですか?近くまで車で迎えにいきますよ」と言ってくれたので、ご厚意に甘えてうちを出た角のところを教えてお願いした。

翌日、時間通りに柏木青年は現れた。小さめのワゴン車だった。
後ろの席に、おばあちゃんと並んで座った。わからないだろうな、と思いながら「ヨシさん、こんにちは」と言うと「はい、こんにちは」とにこにこして言う。

私は、祖父母の補聴器を買ったお店を教えて、そこに行った。
昨日のうちに、あらかじめ電話しておいたので「美和子さん、ありがとうございます」とお店のおじさんが出てきた。
聴力表を見せると、「ああ、これだとずいぶん不自由だったでしょうね」と言い、いつもの感じでお願いします。と言うと二つ出してきた。

「陽介さん、ヨシさんはうちで眼鏡をかけますか?」と聞くと「新聞を読んだりには」と言うので耳掛け式よりも耳穴式を選んだ。あまり聴こえすぎても疲れるものだ。その他の雑音も大きくなるからだ。

なので、そこそこの所で選んでもらった。陽介さんに説明し、使ってもらう。耳に入れると「ほう、前よりはよう聴こえるなぁ」と言ったので、車が通る、外に出てもらった。

そんなに聴こえすぎるようにはしてないので、歩道にいてもヨシさんは耳を押さえたり、しかめ面はしなかった。「では、これで一週間後に」と話して、陽介さんに話す。

「あまりよく聴こえすぎると、人間の耳は自然と必要な音にピントを合わせますが、補聴器はノイズも大きくなるので、聴こえすぎると疲れるので、このくらいでいいと思います。安いものではないので、一週間、これを借りてつけて生活します。お風呂とか顔を洗う時、気をつけてくださいね。外さないと壊れるので」

「眼鏡を使われるので、耳掛け式は耳が痛くなるので耳穴式にしました。不便そうだったり、何か言ってきたら、また教えてください。」と言うと「あのお金は」と言うので、「これを使って具合がよかったら買います。合わなければ別のをまたつけますから、そのあとで」と言ってから「ちなみにうちのおじいちゃんは頑固な人で三回変えたんですよ」と気が軽くなるように言った。

本当にそうだったから。
ても今は補聴器を手放せずまあまあ便利に使ってる。

「あ!そうだ。補聴器つけて電話に出るとハウリングを起こすので、ご家族にも教えてあげておいてください。電話に出る方は外さないといけないので」と言うと、陽介さんが
「わからない事ばかりで、小林さんにはお世話になりっぱなしですみません。でも、とても助かりました」と何度も頭を下げていた。

そうだ、ばあちゃんものどが渇いたと思うのでどこかでお茶しませんか?、と陽介さんが言った。

「す、すみません、重ね重ね」と盛んに陽介さんが恐縮している。

それじゃあ、とうちに連れて来たのだ。
補聴器を使いはじめのヨシさんには、子供の泣き声や若い女性の笑い声が、まだ疲れるはずだ。それにヨシさんが飲める物はお店には置いてないだろう。

「ヨシさん、はい、お茶どうぞ」とお饅頭と一緒に出す。
「悪いねぇ」と言ってお饅頭を食べながらお煎茶をおいしそうに飲む。

「どうしますか?陽介さんはコーヒー派ですか?」と言うと「お茶好きなんです」と言うので、お煎茶を入れながら「実は私もうちではもっぱら昼間はお煎茶、夜はほうじ茶なんです」と言いながら「甘いものは苦手ですか?」とお饅頭も出す。

フーフー、と冷ましながら一口飲んで「ああ、おいしい!小林さんの淹れるお煎茶はおいしいですね!」と言う。「良かった!実は、うちで一番おいしくお煎茶を淹れられるのは私なんです」と言いながら私もお煎茶を飲む。うん、おいしい。

ヨシさんに二杯目のお茶を淹れてあげながら「ところで、私の事は美和子でいいですよ」とお饅頭を食べながら言う。
釣られたように、陽介さんもお饅頭を手にする。

「美和子さん、いろいろと本当にすみません」と陽介さんが言うので
「気にしないでくださいよ。うちも祖父母がいるから、あまり気にならないんです」と言った。

「お茶、もう一杯、いいですか」と、陽介さんに言われ慌てて、でも心を込めて淹れてあげる。

「ヨシさん、テレビ、見ますか?」と言って私が再放送のドラマを入れる。するとヨシさんは、ぱっと顔を明るくして「よう聞こえるなぁ」と言って見ている。

私はお茶を飲みながら「テレビもいいみたいですね」と言った。

それを見て陽介さんが「こんな嬉しそうなばあちゃんは久しぶりだな」と心から嬉しそうに言い、優しい人なんだな、と思った。

そして、一週間が経つ頃、お互い電話番号とメアドを教えたので、陽介さんから私に、今の補聴器で良さそうだ、と連絡が来た。また水曜日の午後、三人で車でお店に行き、私はその日の朝、お店に電話しておいたので「ああ、美和子さん、今朝はどうも」と言い、「美和子さんのご紹介なのでこれで」と電卓を陽介さんに店主が見せる。

「えっ?本当はもっと高いんじゃあ」と言うと、店主が、「美和子さんのお知り合いですからね、少しお勉強させてもらいました」と言った。

また帰りに、うちでお茶をした。
恐縮しながらも、陽介さんもこの間よりつくろいでいる。

そして「美和子さん、お礼にどこかに出かけませんか?」と陽介さんが言った。私は何度か会い、陽介さんの優しい人柄に惹かれ始めていた。

「じゃあ、陽介さんのおすすめの場所で」といたずらっぽく言うと、わかりました、と笑顔を見せた。

そしてさり気なく「美和子さん、つきあっている人とか、いるんですか?」と聞いてきた。

私は笑いながら「いませんよ〜。私なんてだめなんで」と言うと陽介さんが「良かったら、良かったら僕とつきあってもらえませんか?」と言う。

驚いてお茶を誤嚥し、ゴホゴホとむせる。そしてちょっと赤くなりながら「はい、嬉しいです」と言った。

それから一年が経つ頃、私達は正式に婚約した。

私達は『陽ちゃん』、『美和さん』と呼び合っていた。

加奈子にはつきあいだしてひと月くらいの時、紹介した。

加奈子は、ショックが思いの外大きかったようだが、そのすぐ後、
「そっか!その手があった!」といきなり言い出した。

腰とかを痛めて一人で来れないお年寄りを独身の男性の孫が連れてくる、と一人で浮かれていて、陽ちゃんも、プっと笑い、「加奈子さんって、やっぱりどこか美和さんに似ているから、仲がいいと似るのかな?」と言っていた。

こんな未来が待っているとは、あの時は夢にも思わなかった。

そして、この先も二人で未来を紡いでいくのだと思うとなんだか粛然とした気持ちに包まれた。

6/17/2023, 8:45:14 AM

『1年前』

今日、私、山口智恵子は死んだ。

こんなはずではなかったのに。

一年前、のその日は会社の入社式だった。
何社も受けたけれど、一番入りたい会社だったから期待と緊張で胸をときめかせていた。

同期に、岡田絵里香という女性がいた。
ちょっと、他の社員と雰囲気が違っていた。
彼女の場合、比較的楽な仕事を与えられ、ちゃんとやってなくても係長も課長も何も言わなかった。

どうやらこの会社の社長の娘らしいとわかった。
そうして彼女は、私にも自分の仕事を強制的に押しつけて来た。

みんな、周りの社員は知っていても、見ないふりをしていた。
誰も助けてくれなかった。
簡単な仕事だったから、少しがんばればできる程度だった。

そのうち、会社の社員旅行があった。私は参加する予定で楽しみにしていた。
すると岡田絵里香も参加するという。
陰ではみんな嫌がったがそんなことは言えず、黙っていた。

三泊四日の旅行だった。
そしてその旅行中、ふとした事から経理課の西村俊彦という二歳年上の社員と仲良くなった。

きっかけは、夜の食事というか宴会だった。座る場所を番号を引いて決めるのだ。
それで、たまたま隣同士になったのが彼だった。

話してみると同じ県の出身である事がわかり、そこの場所独特の方言や食べ物の話で盛り上がった。
何を話しても、彼と話すと楽しかった。お酒が入っている事もあり、同じ県なんてすごい偶然が重なり、私と西村俊彦は急速に仲良くなった。

旅行中は自由行動は、彼と一緒に行動し、写真を撮ったり食事をしたり、お土産屋さんに入ったり、何をしても楽しかった。
彼といると、とても気が楽で自分らしくいられるのだ。
それを言うと、俺もそうだよ、と言ってくれて、私は彼に惹かれていき、自然に帰ってからも付き合うようになった。

普段のデートの時は、私は俊くんと呼び、彼は私を、智恵と呼んだ。

ある休日、俊くんと観たいと思っていた映画に行った。思った以上に楽しい映画でとても楽しかった。

すると、二人でいる所をたまたま岡田絵里香に見られた。
ばったり町で出会ったのだ。

何か私は嫌な予感がした。

俊くんは、別に悪いことをしてる訳じゃないんだから、あまり気にしないでいようよ、と言ってくれた。

すると、しばらくするとデートの時、俊くんが「参ったよ、岡田絵里香さんが二人で一緒に出かけようと誘ってきて、すごいんだよ」と、困った顔をしていた。「彼女、何なの?みんな遠慮してるみたいだし」と言った。

そうか、経理課までは細かい話はいってないんだ、と思い「なんでも聞いた話だと、社長の娘らしいよ。私、同期だったんだけどろくに仕事しなくても、係長も課長もなーんにも言わないんだもの」と言うと、「うわ〜!そういう人か!それは困ったな」と言っていた。

「俊くん、どうするの?」と聞く私に「それは、自分には、もう彼女がいるから、って断るよ、今度は」と言ったけれど、なんだか不安感が夏の積乱雲の様にむくむくと膨らみ、何か悪いことが起こるのではないか、と嫌な気持ちがして仕方がなかった。

そんなある日、お昼休みに、トイレで岡田絵里香と一緒になった。
もう取り巻きも何人か作り、いつも女性同士、四人くらいで行動していたのだった。

トイレの入り口に一人が見張りで立ち、他の二人は岡田絵里香と一緒に、私を囲むように立ち、彼女が「ねえ、山口さん、あなた経理課の西村俊彦さんとつきあってるのよね?」と言うので、社内でもけっこう知ってる人がいたので私は「ええ」と言った。

すると彼女はまるでハンカチを貸してくれない?とでも言うような気軽さで「彼と別れて」と言った。
私は、突然の話でついていけず「はい?」と言った。すると取り巻きの一人が「鈍い子ね、絵里香さんは、彼と別れろって言っているのよ」と強い口調で言う。

滅茶苦茶な話ではないか、そう思うと、腹が立った。

なので私は「私が誰と付き合おうと私の自由なはずです。すみませんがお断りします」と言うと、何故か妙に含みのある言い方で、「そう?本当にいいのね?」と言って取り巻きと出て行った。はぁっと、緊張から解けたことで思わずため息が出た。

その時は、とても嫌な気分だったが、俊くんに言っても困られるだけだから言わずにいた。

デートの時、俊くんが「智恵が入社してきてもうすぐ一年だね」と言われた。私は仕事と、岡田絵里香の事で、うっかり忘れていた。
「あ!そうだね、もうすぐ一年だ」と言うと、くっくっと笑ってから
「そんな大事なこと忘れてるなんて智恵らしいな」と言った。

トイレの時の話はしてない。
彼も不快な気分になるだろうから。

「一周年のお祝いをしようね」と言ってくれた。
とても嬉しかったし、幸せだった。

でも、その時私は彼女とのことを軽く考えすぎていた。

三月近くになると、経理課はとても忙しくなる。なかなかデートの日も取れないくらいだった。
なので、夜遅くに電話で話をよくしていた。

そんなある日、経理課で大問題が発生した。金庫のお金が百万円足りないのだ。経理課の人間なら誰でも金庫は開け閉め出来る。経理課のみんなの机はもちろん、私物やロッカーまで調べられた。見つからない。このままでは済まない。
そこへふらりと岡田絵里香がやって来た。
「なあに?これはなんの騒ぎ?」と言い、本来は部外者であるはずの彼女に、経理課の課長が苦しそうに、実は、と話した。

すると彼女は真っ直ぐに、西村俊彦を見て、「西村さん、あなた、庶務課の誰かと付き合ってたわよねえ」と言った。課長は西村俊彦に「それは本当か」と言った。彼は「はい、つきあってはいますが、それとこれは全然関係ないのでは?」と言った。

が、岡田絵里香が「誰かさんが、この間買い物をしすぎてお金が足りないって言ってたわよね」と言うと課長が「西村、誰とつきあっているんだ、その子にお金をお前が渡したのか?」と言われ、やられた!、と思った。

「西村、誰とつきあっているんだ!」と課長に強く言われ、しかたなく「そこの岡田絵里香さんと同じ、庶務課の山口智恵子です」と言った。そして「でも自分は彼女にお金など渡していません!」と言ったが、課長は部下を何人か連れて庶務課に急いだ。

私はいつも通り仕事をしていると、急に騒がしくなった。経理課の課長が部下を連れ、私を見ながら言ったのだ。

「庶務課長、経理課の金庫のお金が百万円足りず、居合わせた岡田絵里香さんの話では、山口智恵子さんがつきあっている、うちの課の西村俊彦から受け取った、と。探させてもらってもよろしいですね?」

私達はザワザワとして、みんな、同じ事を考えていた。
私は事態が飲み込めずにぼうっとしていた。すると、経理課長が「机から離れなさい」と言い、私の私物も入っている机を徹底的に調べた。

無いとわかると、うちの課の課長に「彼女のロッカーも探したいので同行してもらえますか」と言った。

「君もだ」と私を見て言われ、ようやく私は事態を呑み込めた。

いくらでも探せばいい。そんなお金、私は知らないし、今朝もロッカーを使ったのだ。そんな物はなかった。

しかし、庶務課の課長が私のロッカーを開けると、経理課長が私のバッグを掴みだし、その中を調べ始めるとすぐに、百万円の束を出してきた。

庶務課の課長が「山口くん、君は」と顔色を変えている。
一番驚いたのは私だ。
だってそんなお金、全然知らないのだから。
「わ、私、そんなお金知りません!取ってなんかいません!」と言ったが、「じゃあ、なぜ君のバッグから出てきたんだ!」と言われ言葉を失った。そうか、岡田絵里香だ!
でも、証拠が、ない。
庶務課の人達が、私を気の毒そうに見ている。

みんな、岡田絵里香がやったのだと確信している。
でも、何も言えない。

私は仕事から外され、庶務課の課長に会議室に連れて行かれた。

経理課では課長が戻ってくるなり「岡田絵里香さんの言うとおり、山口智恵子のバッグから出てきました」と岡田絵里香に言った。

すると、岡田絵里香は「課長、ちょっと」と隅に呼び、しばらく何かを話していた。課長はうなずき、ハンカチを出し、額の汗を拭いた。

西村俊彦は智恵が心配だった。
岡田絵里香がやったのはわかっている。でも、何故、智恵を悪者に?

すると、経理課長がみんなに「みんな、これはここだけの話だ。聞いたら忘れてほしい」と言い、実は西村俊彦は岡田絵里香とつきあっていたが、山口智恵子が岡田絵里香の事をあることない事、横恋慕してきて西村俊彦に告げ口をした。
自分には目もくれないとわかった山口智恵子は、嫉妬に狂い、自分もろとも西村俊彦も陥れたのだ。だから西村俊彦は悪くない。今まで通り仕事をしてもらう。

そんな話は経理課のみんなは聞きながら、嘘だとわかっていた。課長だってわかっているはずだ。
だって、さっき、西村俊彦が自分は山口智恵子とつきあっていると言ったではないか。でも、西村俊彦に目をつけた岡田絵里香が、彼から山口智恵子を引き離す為に、自作自演をしたのだ。

社長の娘なら、金庫の番号を知っていてもおかしくない。

可哀想な、山口智恵子。
西村俊彦も気の毒だ。無理やり自分の彼女に罪を着せられたのだから。

西村俊彦は体の力が抜けていくのがわかった。
なんてことだ!よりによって智恵にそんな罪を着せて。
でも、証拠がない。嘘だとわかっていながらどうしようもできない。

会議室に連れて行かれた智恵子は、完全にはめられたのを悟っていた。
トイレでの、あの会話は、こういう事だったのか。
何を言っても、もう無駄だと思った。

そこに、経理課長と岡田絵里香が入ってきた。庶務課長が立ち上がり、お辞儀をする。
すると、経理課長がおもむろに言った。

「社長に伺ったら、この件は絵里香さんに任せるとの事だ。本当なら横領罪で刑事告訴する所を絵里香さんの寛容なお心で解雇処分だけで済んだ。庶務課長もお咎め無しだ」と言うと、庶務課長がはぁーっと安堵のため息をついたのが聞こえた。
それはそうだ。みんな我が身がかわいい。ましてや、家族がいたら尚更だ。

私は、一つ、とても気になっていたことを聞いた。
「あの、西村俊彦さんは、罪になるのでしょうか」
すると、経理課長が突き放すように「西村は悪くない。それは君が一番わかっているだろう」

私は、ものすごくほっとした。
良かった。彼はまぬがれたんだ。
でもきっと、岡田絵里香とこれからつきあっていかなくてはいけないだろうけれど。

私はその日のうちに解雇処分になった。

職と恋人と同時に失った。
これでどこの会社も雇ってくれはしない。
だって、前職のここに問い合わせれば、横領で解雇処分になったのだから。

生きていく気が、なくなった。
すべてがどうでもよくなった。
岡田絵里香に目をつけられた時から、こうなる運命だったのだ。

死のうかな、と思った。
線路に向かって歩いていく。歩きながら、奇しくも一年前の明日、入社式があったんだ、と気がついた。

楽しかったな、この一年。

さようなら、俊くん。
いつも優しくて楽しかったよ。

パァー!っと遠くで電車の音がする。
特急列車だ。

ここは、駅と駅の間なのでスピードは出したままだ。

線路の前まで来ると、ためらわず飛び込んだ。

翌日、入社式が行われていた。
新しく入った者たちはみな、期待と緊張で胸をときめかせていた。

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