『未来』
未来、という言葉には、何かよくわからないが、すごい発明があったり、信じられないくらい便利になったり、自分の事なら、そう、将来の結婚相手と出会っていて、もしかしたら結婚して、かわいい子供がいて、子猫がいて、なんてポジティブな事ばかり浮かんで来る。
だけど、十年前の自分からしたら、今はそういう『未来』のはずなのに、全然、不思議なほど何も代わり映えもしない毎日を送っている。
言葉自体が、魔法の様に一人歩きしている気がするのは私だけだろうか。
そういう事を親友の加奈子に話すと、「美和子が未来に夢を求めすぎてるんじゃないの?」とアイスティーのストローから唇を離し、私に言う。
私からしたら、もうかれこれ、十五年くらいの間、お店で飲むのは夏でも真冬でも、ひたすら馬鹿の一つ覚えのように、アイスティーを飲んでいる、可奈子の方が十五年前から全く変わらず、おかしいんじゃないの?と思える。
私と可奈子は高校生からの親友だ。
だんだん周りが結婚したり、恋人ができ、一緒に暮らしている、と聞くと、どこで知り合い、そういう事になるのか、男性に縁がない私達からすると、不思議な気がする。
私は、耳鼻科に勤めてもう十年以上経つ。患者さんの多くは耳が遠くなったおじいちゃん、おばあちゃんが多い。出会いなど、あるはずがない。
可奈子はこれまた整形外科に勤めている。ごくたまーに、足を骨折した若い人が来るらしいが、痛みで可奈子の事なんて見ていられないらしい。たいていは、私と同じく腰が痛い、膝が痛い、といったおじいちゃん、おばあちゃんが患者さんの九割を占めるらしい。
二人とも失敗したかも、と思うが、三十歳を何年か前に過ぎた身で、今更職探しはかなり難しい。という訳で、こうして一緒に休みの日は愚痴をこぼしながら二人で気楽に過ごすことが多い。
ある日、おばあちゃんの手を引いて若い人が一緒に耳鼻科に来た。
ちょっと足が不自由らしい。
「車椅子、持ってきましょうか?」と聞くと、若い人のほうがびっくりしたように振り返り、「あ、すみません、じゃあお借りします」と言って、「ほら、ばあちゃん足上げて」と優しく乗せている。(お孫さんかな?)と思いながら、そんなに混まないので、すぐに順番になった。
「柏木ヨシさん」と呼ぶと、先ほどの若い人が「はい」と言って車椅子を押しながら、診察室に入る。
「どうしました?」何千回といったであろう言葉を、先生は言う。
「先生、この頃よう聞こえんで困りますわ」とおばあちゃんが言う。
付いてる若い人が「テレビの音がやたら最近大きいんです」と言う。
「まあ、年すりゃあ、耳も遠くなるなあ」と先生がのんびり言い、私に「聴力検査だな」と言った。
私はそのおばあちゃんに、しゃがんで、車椅子の目線にあわせて、はっきりとした口調で「ヨシさん、どのくらい聴こえるか、調べましょうね」と言い、付き添いの人に「検査室は狭いので入り口から椅子までは支えてあげてもらえますか?」と言う。わかりました、とその人は言って、狭い検査室になんとか手を引いて椅子に座らせる。
「音を流しますので聴こえたらボタンを押してくださいね」と言う。
おばあちゃんは、ひどく真剣な顔で聴き漏らすまい、とボタンを持っているが、押したのはかなり少なかった。
先生の前にまた車椅子で行くと、先生が「補聴器使ったほうがいいなぁ」と言った。「両方聴こえてないから両耳だな、町によく看板が出ているから、この紙見せて買ってはめれば、よく聴こえるからね」と先生が言い、私を見たので「はい、いいですよ」と言って待合室まで案内する。
すると、付き添いの青年が「あの、かなり高価なんですか」と言うので「高いものからかなり安いものまであります。高ければいいというわけではないので」と言うと、ちょっとためらったあと「こんな事、お願いするのは図々しいのですが、一緒に選んでもらえませんか?僕も全然わからなくて」と、とても困った顔をしていた。
それはそうだろう。眼鏡と違って、端で見ている人にはわからないし、悪質なお店は高いものを売りつけてくる。
幸い、うちは祖父母の補聴器は私がついていって選んだので、だいたいわかる。本人にも、どの程度聴こえるのがいいのかは、なかなか難しい。
だから私は「いいですよ。いつがいいですか?平日なら明日の水曜日の午後とあとは土曜日の午後と日曜日なら行かれます」と言う。
「じゃあ、明日の午後でいいですか?」と言うので「はい、大丈夫ですよ」と言ってから、「私は小林美和子と言います」と言うと、その青年は慌てて「す、すみません、僕は柏木陽介と言います、小林さん、どこにお住まいですか?近くまで車で迎えにいきますよ」と言ってくれたので、ご厚意に甘えてうちを出た角のところを教えてお願いした。
翌日、時間通りに柏木青年は現れた。小さめのワゴン車だった。
後ろの席に、おばあちゃんと並んで座った。わからないだろうな、と思いながら「ヨシさん、こんにちは」と言うと「はい、こんにちは」とにこにこして言う。
私は、祖父母の補聴器を買ったお店を教えて、そこに行った。
昨日のうちに、あらかじめ電話しておいたので「美和子さん、ありがとうございます」とお店のおじさんが出てきた。
聴力表を見せると、「ああ、これだとずいぶん不自由だったでしょうね」と言い、いつもの感じでお願いします。と言うと二つ出してきた。
「陽介さん、ヨシさんはうちで眼鏡をかけますか?」と聞くと「新聞を読んだりには」と言うので耳掛け式よりも耳穴式を選んだ。あまり聴こえすぎても疲れるものだ。その他の雑音も大きくなるからだ。
なので、そこそこの所で選んでもらった。陽介さんに説明し、使ってもらう。耳に入れると「ほう、前よりはよう聴こえるなぁ」と言ったので、車が通る、外に出てもらった。
そんなに聴こえすぎるようにはしてないので、歩道にいてもヨシさんは耳を押さえたり、しかめ面はしなかった。「では、これで一週間後に」と話して、陽介さんに話す。
「あまりよく聴こえすぎると、人間の耳は自然と必要な音にピントを合わせますが、補聴器はノイズも大きくなるので、聴こえすぎると疲れるので、このくらいでいいと思います。安いものではないので、一週間、これを借りてつけて生活します。お風呂とか顔を洗う時、気をつけてくださいね。外さないと壊れるので」
「眼鏡を使われるので、耳掛け式は耳が痛くなるので耳穴式にしました。不便そうだったり、何か言ってきたら、また教えてください。」と言うと「あのお金は」と言うので、「これを使って具合がよかったら買います。合わなければ別のをまたつけますから、そのあとで」と言ってから「ちなみにうちのおじいちゃんは頑固な人で三回変えたんですよ」と気が軽くなるように言った。
本当にそうだったから。
ても今は補聴器を手放せずまあまあ便利に使ってる。
「あ!そうだ。補聴器つけて電話に出るとハウリングを起こすので、ご家族にも教えてあげておいてください。電話に出る方は外さないといけないので」と言うと、陽介さんが
「わからない事ばかりで、小林さんにはお世話になりっぱなしですみません。でも、とても助かりました」と何度も頭を下げていた。
そうだ、ばあちゃんものどが渇いたと思うのでどこかでお茶しませんか?、と陽介さんが言った。
「す、すみません、重ね重ね」と盛んに陽介さんが恐縮している。
それじゃあ、とうちに連れて来たのだ。
補聴器を使いはじめのヨシさんには、子供の泣き声や若い女性の笑い声が、まだ疲れるはずだ。それにヨシさんが飲める物はお店には置いてないだろう。
「ヨシさん、はい、お茶どうぞ」とお饅頭と一緒に出す。
「悪いねぇ」と言ってお饅頭を食べながらお煎茶をおいしそうに飲む。
「どうしますか?陽介さんはコーヒー派ですか?」と言うと「お茶好きなんです」と言うので、お煎茶を入れながら「実は私もうちではもっぱら昼間はお煎茶、夜はほうじ茶なんです」と言いながら「甘いものは苦手ですか?」とお饅頭も出す。
フーフー、と冷ましながら一口飲んで「ああ、おいしい!小林さんの淹れるお煎茶はおいしいですね!」と言う。「良かった!実は、うちで一番おいしくお煎茶を淹れられるのは私なんです」と言いながら私もお煎茶を飲む。うん、おいしい。
ヨシさんに二杯目のお茶を淹れてあげながら「ところで、私の事は美和子でいいですよ」とお饅頭を食べながら言う。
釣られたように、陽介さんもお饅頭を手にする。
「美和子さん、いろいろと本当にすみません」と陽介さんが言うので
「気にしないでくださいよ。うちも祖父母がいるから、あまり気にならないんです」と言った。
「お茶、もう一杯、いいですか」と、陽介さんに言われ慌てて、でも心を込めて淹れてあげる。
「ヨシさん、テレビ、見ますか?」と言って私が再放送のドラマを入れる。するとヨシさんは、ぱっと顔を明るくして「よう聞こえるなぁ」と言って見ている。
私はお茶を飲みながら「テレビもいいみたいですね」と言った。
それを見て陽介さんが「こんな嬉しそうなばあちゃんは久しぶりだな」と心から嬉しそうに言い、優しい人なんだな、と思った。
そして、一週間が経つ頃、お互い電話番号とメアドを教えたので、陽介さんから私に、今の補聴器で良さそうだ、と連絡が来た。また水曜日の午後、三人で車でお店に行き、私はその日の朝、お店に電話しておいたので「ああ、美和子さん、今朝はどうも」と言い、「美和子さんのご紹介なのでこれで」と電卓を陽介さんに店主が見せる。
「えっ?本当はもっと高いんじゃあ」と言うと、店主が、「美和子さんのお知り合いですからね、少しお勉強させてもらいました」と言った。
また帰りに、うちでお茶をした。
恐縮しながらも、陽介さんもこの間よりつくろいでいる。
そして「美和子さん、お礼にどこかに出かけませんか?」と陽介さんが言った。私は何度か会い、陽介さんの優しい人柄に惹かれ始めていた。
「じゃあ、陽介さんのおすすめの場所で」といたずらっぽく言うと、わかりました、と笑顔を見せた。
そしてさり気なく「美和子さん、つきあっている人とか、いるんですか?」と聞いてきた。
私は笑いながら「いませんよ〜。私なんてだめなんで」と言うと陽介さんが「良かったら、良かったら僕とつきあってもらえませんか?」と言う。
驚いてお茶を誤嚥し、ゴホゴホとむせる。そしてちょっと赤くなりながら「はい、嬉しいです」と言った。
それから一年が経つ頃、私達は正式に婚約した。
私達は『陽ちゃん』、『美和さん』と呼び合っていた。
加奈子にはつきあいだしてひと月くらいの時、紹介した。
加奈子は、ショックが思いの外大きかったようだが、そのすぐ後、
「そっか!その手があった!」といきなり言い出した。
腰とかを痛めて一人で来れないお年寄りを独身の男性の孫が連れてくる、と一人で浮かれていて、陽ちゃんも、プっと笑い、「加奈子さんって、やっぱりどこか美和さんに似ているから、仲がいいと似るのかな?」と言っていた。
こんな未来が待っているとは、あの時は夢にも思わなかった。
そして、この先も二人で未来を紡いでいくのだと思うとなんだか粛然とした気持ちに包まれた。
6/18/2023, 12:37:18 AM