『1年前』
今日、私、山口智恵子は死んだ。
こんなはずではなかったのに。
一年前、のその日は会社の入社式だった。
何社も受けたけれど、一番入りたい会社だったから期待と緊張で胸をときめかせていた。
同期に、岡田絵里香という女性がいた。
ちょっと、他の社員と雰囲気が違っていた。
彼女の場合、比較的楽な仕事を与えられ、ちゃんとやってなくても係長も課長も何も言わなかった。
どうやらこの会社の社長の娘らしいとわかった。
そうして彼女は、私にも自分の仕事を強制的に押しつけて来た。
みんな、周りの社員は知っていても、見ないふりをしていた。
誰も助けてくれなかった。
簡単な仕事だったから、少しがんばればできる程度だった。
そのうち、会社の社員旅行があった。私は参加する予定で楽しみにしていた。
すると岡田絵里香も参加するという。
陰ではみんな嫌がったがそんなことは言えず、黙っていた。
三泊四日の旅行だった。
そしてその旅行中、ふとした事から経理課の西村俊彦という二歳年上の社員と仲良くなった。
きっかけは、夜の食事というか宴会だった。座る場所を番号を引いて決めるのだ。
それで、たまたま隣同士になったのが彼だった。
話してみると同じ県の出身である事がわかり、そこの場所独特の方言や食べ物の話で盛り上がった。
何を話しても、彼と話すと楽しかった。お酒が入っている事もあり、同じ県なんてすごい偶然が重なり、私と西村俊彦は急速に仲良くなった。
旅行中は自由行動は、彼と一緒に行動し、写真を撮ったり食事をしたり、お土産屋さんに入ったり、何をしても楽しかった。
彼といると、とても気が楽で自分らしくいられるのだ。
それを言うと、俺もそうだよ、と言ってくれて、私は彼に惹かれていき、自然に帰ってからも付き合うようになった。
普段のデートの時は、私は俊くんと呼び、彼は私を、智恵と呼んだ。
ある休日、俊くんと観たいと思っていた映画に行った。思った以上に楽しい映画でとても楽しかった。
すると、二人でいる所をたまたま岡田絵里香に見られた。
ばったり町で出会ったのだ。
何か私は嫌な予感がした。
俊くんは、別に悪いことをしてる訳じゃないんだから、あまり気にしないでいようよ、と言ってくれた。
すると、しばらくするとデートの時、俊くんが「参ったよ、岡田絵里香さんが二人で一緒に出かけようと誘ってきて、すごいんだよ」と、困った顔をしていた。「彼女、何なの?みんな遠慮してるみたいだし」と言った。
そうか、経理課までは細かい話はいってないんだ、と思い「なんでも聞いた話だと、社長の娘らしいよ。私、同期だったんだけどろくに仕事しなくても、係長も課長もなーんにも言わないんだもの」と言うと、「うわ〜!そういう人か!それは困ったな」と言っていた。
「俊くん、どうするの?」と聞く私に「それは、自分には、もう彼女がいるから、って断るよ、今度は」と言ったけれど、なんだか不安感が夏の積乱雲の様にむくむくと膨らみ、何か悪いことが起こるのではないか、と嫌な気持ちがして仕方がなかった。
そんなある日、お昼休みに、トイレで岡田絵里香と一緒になった。
もう取り巻きも何人か作り、いつも女性同士、四人くらいで行動していたのだった。
トイレの入り口に一人が見張りで立ち、他の二人は岡田絵里香と一緒に、私を囲むように立ち、彼女が「ねえ、山口さん、あなた経理課の西村俊彦さんとつきあってるのよね?」と言うので、社内でもけっこう知ってる人がいたので私は「ええ」と言った。
すると彼女はまるでハンカチを貸してくれない?とでも言うような気軽さで「彼と別れて」と言った。
私は、突然の話でついていけず「はい?」と言った。すると取り巻きの一人が「鈍い子ね、絵里香さんは、彼と別れろって言っているのよ」と強い口調で言う。
滅茶苦茶な話ではないか、そう思うと、腹が立った。
なので私は「私が誰と付き合おうと私の自由なはずです。すみませんがお断りします」と言うと、何故か妙に含みのある言い方で、「そう?本当にいいのね?」と言って取り巻きと出て行った。はぁっと、緊張から解けたことで思わずため息が出た。
その時は、とても嫌な気分だったが、俊くんに言っても困られるだけだから言わずにいた。
デートの時、俊くんが「智恵が入社してきてもうすぐ一年だね」と言われた。私は仕事と、岡田絵里香の事で、うっかり忘れていた。
「あ!そうだね、もうすぐ一年だ」と言うと、くっくっと笑ってから
「そんな大事なこと忘れてるなんて智恵らしいな」と言った。
トイレの時の話はしてない。
彼も不快な気分になるだろうから。
「一周年のお祝いをしようね」と言ってくれた。
とても嬉しかったし、幸せだった。
でも、その時私は彼女とのことを軽く考えすぎていた。
三月近くになると、経理課はとても忙しくなる。なかなかデートの日も取れないくらいだった。
なので、夜遅くに電話で話をよくしていた。
そんなある日、経理課で大問題が発生した。金庫のお金が百万円足りないのだ。経理課の人間なら誰でも金庫は開け閉め出来る。経理課のみんなの机はもちろん、私物やロッカーまで調べられた。見つからない。このままでは済まない。
そこへふらりと岡田絵里香がやって来た。
「なあに?これはなんの騒ぎ?」と言い、本来は部外者であるはずの彼女に、経理課の課長が苦しそうに、実は、と話した。
すると彼女は真っ直ぐに、西村俊彦を見て、「西村さん、あなた、庶務課の誰かと付き合ってたわよねえ」と言った。課長は西村俊彦に「それは本当か」と言った。彼は「はい、つきあってはいますが、それとこれは全然関係ないのでは?」と言った。
が、岡田絵里香が「誰かさんが、この間買い物をしすぎてお金が足りないって言ってたわよね」と言うと課長が「西村、誰とつきあっているんだ、その子にお金をお前が渡したのか?」と言われ、やられた!、と思った。
「西村、誰とつきあっているんだ!」と課長に強く言われ、しかたなく「そこの岡田絵里香さんと同じ、庶務課の山口智恵子です」と言った。そして「でも自分は彼女にお金など渡していません!」と言ったが、課長は部下を何人か連れて庶務課に急いだ。
私はいつも通り仕事をしていると、急に騒がしくなった。経理課の課長が部下を連れ、私を見ながら言ったのだ。
「庶務課長、経理課の金庫のお金が百万円足りず、居合わせた岡田絵里香さんの話では、山口智恵子さんがつきあっている、うちの課の西村俊彦から受け取った、と。探させてもらってもよろしいですね?」
私達はザワザワとして、みんな、同じ事を考えていた。
私は事態が飲み込めずにぼうっとしていた。すると、経理課長が「机から離れなさい」と言い、私の私物も入っている机を徹底的に調べた。
無いとわかると、うちの課の課長に「彼女のロッカーも探したいので同行してもらえますか」と言った。
「君もだ」と私を見て言われ、ようやく私は事態を呑み込めた。
いくらでも探せばいい。そんなお金、私は知らないし、今朝もロッカーを使ったのだ。そんな物はなかった。
しかし、庶務課の課長が私のロッカーを開けると、経理課長が私のバッグを掴みだし、その中を調べ始めるとすぐに、百万円の束を出してきた。
庶務課の課長が「山口くん、君は」と顔色を変えている。
一番驚いたのは私だ。
だってそんなお金、全然知らないのだから。
「わ、私、そんなお金知りません!取ってなんかいません!」と言ったが、「じゃあ、なぜ君のバッグから出てきたんだ!」と言われ言葉を失った。そうか、岡田絵里香だ!
でも、証拠が、ない。
庶務課の人達が、私を気の毒そうに見ている。
みんな、岡田絵里香がやったのだと確信している。
でも、何も言えない。
私は仕事から外され、庶務課の課長に会議室に連れて行かれた。
経理課では課長が戻ってくるなり「岡田絵里香さんの言うとおり、山口智恵子のバッグから出てきました」と岡田絵里香に言った。
すると、岡田絵里香は「課長、ちょっと」と隅に呼び、しばらく何かを話していた。課長はうなずき、ハンカチを出し、額の汗を拭いた。
西村俊彦は智恵が心配だった。
岡田絵里香がやったのはわかっている。でも、何故、智恵を悪者に?
すると、経理課長がみんなに「みんな、これはここだけの話だ。聞いたら忘れてほしい」と言い、実は西村俊彦は岡田絵里香とつきあっていたが、山口智恵子が岡田絵里香の事をあることない事、横恋慕してきて西村俊彦に告げ口をした。
自分には目もくれないとわかった山口智恵子は、嫉妬に狂い、自分もろとも西村俊彦も陥れたのだ。だから西村俊彦は悪くない。今まで通り仕事をしてもらう。
そんな話は経理課のみんなは聞きながら、嘘だとわかっていた。課長だってわかっているはずだ。
だって、さっき、西村俊彦が自分は山口智恵子とつきあっていると言ったではないか。でも、西村俊彦に目をつけた岡田絵里香が、彼から山口智恵子を引き離す為に、自作自演をしたのだ。
社長の娘なら、金庫の番号を知っていてもおかしくない。
可哀想な、山口智恵子。
西村俊彦も気の毒だ。無理やり自分の彼女に罪を着せられたのだから。
西村俊彦は体の力が抜けていくのがわかった。
なんてことだ!よりによって智恵にそんな罪を着せて。
でも、証拠がない。嘘だとわかっていながらどうしようもできない。
会議室に連れて行かれた智恵子は、完全にはめられたのを悟っていた。
トイレでの、あの会話は、こういう事だったのか。
何を言っても、もう無駄だと思った。
そこに、経理課長と岡田絵里香が入ってきた。庶務課長が立ち上がり、お辞儀をする。
すると、経理課長がおもむろに言った。
「社長に伺ったら、この件は絵里香さんに任せるとの事だ。本当なら横領罪で刑事告訴する所を絵里香さんの寛容なお心で解雇処分だけで済んだ。庶務課長もお咎め無しだ」と言うと、庶務課長がはぁーっと安堵のため息をついたのが聞こえた。
それはそうだ。みんな我が身がかわいい。ましてや、家族がいたら尚更だ。
私は、一つ、とても気になっていたことを聞いた。
「あの、西村俊彦さんは、罪になるのでしょうか」
すると、経理課長が突き放すように「西村は悪くない。それは君が一番わかっているだろう」
私は、ものすごくほっとした。
良かった。彼はまぬがれたんだ。
でもきっと、岡田絵里香とこれからつきあっていかなくてはいけないだろうけれど。
私はその日のうちに解雇処分になった。
職と恋人と同時に失った。
これでどこの会社も雇ってくれはしない。
だって、前職のここに問い合わせれば、横領で解雇処分になったのだから。
生きていく気が、なくなった。
すべてがどうでもよくなった。
岡田絵里香に目をつけられた時から、こうなる運命だったのだ。
死のうかな、と思った。
線路に向かって歩いていく。歩きながら、奇しくも一年前の明日、入社式があったんだ、と気がついた。
楽しかったな、この一年。
さようなら、俊くん。
いつも優しくて楽しかったよ。
パァー!っと遠くで電車の音がする。
特急列車だ。
ここは、駅と駅の間なのでスピードは出したままだ。
線路の前まで来ると、ためらわず飛び込んだ。
翌日、入社式が行われていた。
新しく入った者たちはみな、期待と緊張で胸をときめかせていた。
6/17/2023, 8:45:14 AM