紙ふうせん

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『あなたがいたから』

春の暖かい風が吹き抜ける放課後。
いつものように、優希が走り込みしてるのを、私は校庭の隅で見ている。

私に気づくと、優希が手を上げる。しばらくすると、荒い息遣いとともに、汗をかいた優希が私のそばに座る。保冷バックに入れておいた飲み物を手渡すと「ありがとうな」と言ってみるみるペットボトルの飲み物が減っていく。優希の喉が生き生きと動く。
「あ〜!生き返る!!」と言って、手渡したスポーツタオルでワシワシと髪を拭き顔を拭く。首にタオルをかけたまま、「すみれはこれで帰る?」と聞かれ「うん、手話教室の課題もあるしね」と言うと
「本当にすみれは偉いよな。近所の手話教室に通って高校生の間に手話ペラペラになるんだもんな」と言うので「英語がペラペラならわかるけれど、手話は話さないの」と笑って言い、立ち上がる。

「じゃあ、帰るね、優希もがんばってね」と言って「おう」という声を背中で聞きながら歩き出す。

私と優希は中学生の頃からつきあっている。合わせたわけではないのに、受けたら同じ高校だった。
でも、やっぱり嬉しいな。
歩きながら、顔がつい緩み、前から来た人が、怪訝そうに歩いていく。
(春だから、変なのと会ったと思ったかな)と思うと笑いが込み上げて来る。

信号の所に来たので、歩行者用のボタンを押す。しばらくすると歩行者マークが青になり、ピッポ、ピッポ、と鳴っている。歩き出すと車の影からスピードを出した車が目前だった。避けることも出来ず私はそのままなすすべもなく跳ね飛ばされた。

気がつくと、全身が痛かった。
体が動かせない。何が起きたのか、全くわからなかった。

「すみれ!気がついたの!」お母さんの声がする。首をそちらに向けると、お母さんとお父さんが揃って身を乗り出した。優希もいた。

「私、どうかしたの?」と言うと
「やっぱり覚えてないのね、あなた横断歩道で車に跳ね飛ばされたのよ」
私が?そこでようやく思い出した。

そうだ!青になって渡ってたら、影からスピードを出した車に跳ねられたんだ!
「幸い、対向車のカーナビが動かぬ証拠となって運転してた男は逮捕されたのよ」
一番気になっていたことを聞いた。

「私の体は、特に何か問題はないのよね?」すぐに頷くと思っていた両親の顔がこわばる。私も血の気が引く。
「私の体、どこがどうしたの?!教えて!」すると母が震える声で
「足が」足が何なの?!怖かった。
聞きたいけれど事実を知るのが怖かった。
「下手すると、車椅子の生活になるかもって」と、優希が言った。

「嘘でしょう?!だって、だってさっきまで普通に歩いてたのに、そんなのおかしいじゃない!!」
自分の声が、上ずっているのがわかった。体が小刻みに震えてくる。

「すみれ、落ち着いてちょうだい」
と母に言われ、思わずカッとなる。

「落ち着ける訳ないじゃない!私、もう歩けないかもしれないのに!
やっと、高校生になったばかりなのに!」

騒ぎを聞きつけ、医師と看護師が入ってきた。小さな声で、鎮静剤を、と言うなり、看護師が注射を出した。「私は冷静よ!それにそんなの一時しのぎじゃない!」とまだ叫んでいる私に素早く看護師が鎮静剤を打つ。少しすると体から力が抜け、意識が遠くなる。

私はその時は意識がなく、あとで母から聞いたのだが、父が医師に
「先生、手術で娘は歩けるようにはならんのですか」と聞く。

医師は首を振り「手術でなんとかなるならとっくにしています。あとは娘さんがリハビリをがんばれば、足は動く可能性はあります」父の顔がパッと明るくなる。が、医師が
「一番の問題はこういう場合、本人が自暴自棄になって、リハビリを放棄する事なんです。やる気にさえなれば、根気よくリハビリを続けていけば、どの程度回復するかは、今はなんとも言えませんが、可能性はあります」

優希は唇をかんで考えていた。
自分だったら?がんばって辛いリハビリを続けた先に、必ず良くなるという保証があれば、きっとがんばれる。だけど、それが徒労に終わるかもしれないとわかっていたら、果たして俺はできるだろうか。
まず、心が折れる、そしてリハビリ自体も放棄するかもしれない。

中学の頃から行き来して知っている優希は「おじさん」とベンチに座り込んでいる、抜け殻のような、すみれの父親に声をかける。

「すみれには、リハビリをがんばれば、絶対に足は動くようになり、やがて歩けるようになる、と言うのはどうかな」そこで、父親は初めて顔を上げた。
この数時間で一気に老け込んだような感じだ。無理もない。
まだ高校一年になったばかりだというのに。すみれは何も悪くないのに。母親はぐったりとベンチに座っている。母親は先ほどすみれが注射で寝ている間に、医師に、「私の足をあの子に、あの子につけられませんか!!」と血走った目ですがりついていたのだ。

ちゃんと理性が働いていたら、そんな事言うわけがないのに。
それだけ、気が動転してたのだろう。

「おじさん、俺は本屋に行って体の仕組みの本を買う。そうしたら、足が動く仕組みもわかるはずだ。あとはリハビリをする、理学療法士の本も買ってきて、読んで覚えるよ」と言い「すみれ一人に戦わせない、俺も俺のやり方で戦うよ」

すると、抜け殻のようだった父親が「そうだな」と言った。さっきより目に力が少し戻ってきていた。

「優希君の言うとおりだ、私も娘にだけ辛い思いをさせない。私も自分のやり方で戦うよ」「おじさん」優希が言う。

「君の言うとおりだ。すみれには、がんばれば必ず歩けると、みんなで言って信じよう!そうすればいい方に行くかもしれない、母さんには、落ち着いた時、私から話しておくよ」

「だめだと私達が思ったら、駄目なんだな。信じて、みんなでそれぞれがんばる姿を見ればすみれは、気力を取り戻してくれるかもしれない」

父親の目が生き生きとしてきた。

そうだ、みんなで信じてがんばれば、それはやがて本当になるはずだ!俺も勉強して、リハビリにつきあうさ。優希は力が湧いてくるのがわかった。

優希はまず、陸上部を辞めた。
中学の時から、全国大会にまで出ている優希は、一番の戦力だ。
監督は渋ったが、理由を聞き、わかったと優希の背中を叩いた。

優希にとっても、何より大事だった陸上部を辞める事は断腸の思いだっただろう。監督もまた、なんとかうまくいってほしい、と願わずにはいられなかった。

優希は、人体の仕組みを暗記するほど覚え、今は理学療法士の本で勉強している。

私は、何も希望がなく歩けぬ為に死ぬ事も出来ず、ただ絶望の中、ベッドで声も立てずにひたすら泣いていた。

すると、母が「すみれ、来たわよ!」と元気よく入ってきた。

そして「お母さんね、あなたがリハビリをがんばって歩けるようになるまで、甘い物断ちをする事にしたの」と言ったので驚いた。

そして、無駄よ、歩けないんだから
と背を向けてしまった。
母はあきらめず毎日やってきては、お店にこんなおいしそうなのがあった。でも我慢したわよ!と得意そうに言った。

父も毎日顔を出す。そして言ったのだ。「父さん、運動不足で病院から注意されているだろう?だが、すみれも知っての通り、運動が大嫌いなんだ。でも、すみれがリハビリをがんばって歩ける日まで、ウォーキングを始めたんだよ、まだきついが、なあに、すみれのリハビリを思えばがんばれるさ」と言う。
背を向けながら、これにはちょっと驚いた。

今まであんなに言われていたのに絶対にやらなかったのに。

お父さんもお母さんも、私がリハビリをがんばれば、本当に歩けるって思ってるのかしらね。

一番、元気が出ないのは優希がここ一週間、全然顔を出さないことだ。

もう、歩けない私なんかに見切りをつけたのかも。
そう思うだけで涙が出た。

そして「すみれ、ゴメンな、しばらく来れなくて」とその日の放課後来てくれた。

嬉しいのに、その心と裏腹に嫌味を言ってしまった。

「そうよね、部活に学校生活に、忙しいわよね」しばらく黙っている。
そして「俺、部活辞めたんだよ、もう」さすがにびっくりして起き上がる。

「なんで?!あんなに中学の時からがんばっていたのに!」

「もっと、大切でやりたい事ができたからなんだ」
「部活より、大切でやりたい事?」と言うと照れ臭そうに優希は言う。
「うん、俺さ、すみれがリハビリがんばって歩けるようになるために、何が必要なのかなって考えたら、体の仕組みも知らなくて、本買って、一週間暗記するほど覚えたよ」

「今の俺にできる事は、すみれのリハビリの手伝いくらいだなって思って、歩けるまで、ちゃんと知識を持ってつきあおうと、今は理学療法士の本を読んでいるんだ」

すみれは突然、目の前が揺らいでそして頬をその涙が流れるままに
「なんでみんなで、私がリハビリで歩けるようになると思ってるのよ!歩けるわけないじゃない!それに、リハビリって」と言うと、優希が
「とても痛くて辛い、だよね?」

「俺じゃ駄目か?力にもなれないか?親父さんやおふくろさんももちろん俺も、すみれ一人に苦しい思いをさせまいとみんな、すみれがリハビリをがんばって歩ける日までがんばるって決めているんだ」

いつの間にか、優希の手が私の手を包んでいる。

こんなにも、私のためにみんながんばってくれている。お父さん、お母さん、そして、優希!

「俺さ、すみれが手話をマスターする頃には、理学療法士になりたいって思っているんだ」だから一緒にがんばろうと。

みんなが信じていてくれる。
私が辛く痛いリハビリに耐え、いつか必ず歩けるって。

お母さんは毎日甘い物を二つは食べないといられないのに。

お父さんは、大の運動嫌いなのに。

優希は大好きな部活を辞めてまで勉強して、私が歩ける日まで一緒にがんばろうと言ってくれている。

お母さん、あなたがいるから。
お父さん、あなたがいるから。

そして、そして優希が、あなたがいるから。

「優希、ごめんなさい。一人でいじけていて。でも私、がんばる。苦しい時はみんなも苦しい思いをしてくれているのを思い出して、リハビリがんばる!!」

「すみれ、偉いぞ!みんなで一緒にがんばろうな」優希が優しく抱きしめてくれる。

そして、ひと月が経ち、私はなんとかポールにつかまりガクガクしながらだが、立つ事ができた!

それを見ていた両親はいきなり
「すみれ、すごいぞ、バンザーイ!!」と大声でバンザイをして理学療法士さんに注意されていた。

優希はいつも、学校が終わると毎日来てくれる。そして理学療法士さんに質問したり、こうしたら、だめですか?などと言い、優希君、理学療法士になったら、ここに就職してよ、と言われるようになっていた。

両親と私の絆は以前より強くなったと感じているし、素直にお礼が言えるようになった。

優希が、優希の存在がやはり一番の支えだ。少し先でまっすぐ私を見る優希、待っていてね。あなたがいるから、いつかそこまで歩いて胸に飛びつくから。


6/20/2023, 2:36:58 PM