『やりたいこと』
私は子供の頃のトラウマが原因で、自分の心の中にある事を表現できなくなってしまった。
それが親だったから、尚更だった。
本を読むのが大好きで、本の虫だった。
インプットはいくらでもできるのに、アウトプットができないのだ。
そのうち、したいとも思わなくなった。
それが年月が経ち、トラウマから開放された今、生まれて初めて、文章を書いた。
それは『文章』と呼んでいいかも分からない代物だったが、書けた事が何よりも嬉しかった。
幸い、私の中には膨大なストックがある。
今は、書くことが楽しくて仕方がない。
いろいろな事に気をつけだした。
最初よりは、文章が少し書き慣れた。
表現する事がこんなに楽しいなんて、知らなかった。
今は一番の趣味になっているかもしれない。
いやいや、本を読むのもやはり楽しくて仕方がない。
それなら一番の趣味は、読書と文を書く事。
いくつになっても、何才になっても、新しい出会いがある事を初めて知った。
可能性は無限大。
心は自由だ。
今は、昔できなかった、やりたいことができて、幸せこの上ない毎日だ。
『誰にも言えない秘密』
私、十二歳のあかねはずっと商店街に住んでいた。だからみんな仲良し。でもお店屋だから泊まりで出かけたことがない。これってひどくない?っていつも友達と文句タラタラ。
大人たちもそこの所は悪いと思うのか、日帰りだけどたびたびバスを借り、高原や大きな室内プールにと私たちを連れて行ってくれた。私もみんなと同じで前の夜はワクワクで胸がいっぱいで眠れたもんじゃない。
その日は少し足を伸ばし川原でバーベキューをしようという日だった。
その川は流れが穏やかで浅瀬だから川遊びもできるというので、私たちのテンションは上がりまくり。やったぁ、川遊びなんて初めてだし、そんな所でのバーベキューも死ぬほど楽しみ。
熱が出そうなくらい、その日を待っていたもの。
私はバスの右側に座った。こっち側が川だと聞いたから。だんだんお店もなくなり、畑ばかりになり遠くには山が見える。バスから景色を見るのはとても楽しいの。初夏だったのでバスの窓も少し開いてる。畑が増えてくると窓から入る風に乗って土の匂いがしてくる。景色もどんどん変わるし匂いも変わる。楽しみだなあ。だって、大きな川なんて見たことがないんだもの。
そのうち急に右側は林になった。
薄暗くて木ばかりでつまらないなぁ、と思った頃白いかわいいお花を見つけた。やったぁ、あれ?水の音がする?
「わぁ、川の音だ〜」と誰かが言い大騒ぎ。こんなに楽しみにしてたんだから当たり前だよね。
急に眩しくなり大きな川が見えた。とうとう川だ、なんて大きいの、こんなに大きな川は見たことないから、バスの中はもう、大興奮。白いお花もいっぱい咲いてる、かわいいな。
バスを降りると草原だった。シロツメクサがいっぱい咲いている。じゃあ、これで花のかんむりや首飾りも作れるじゃない?なんて今日はいい日なんだろう。
バーベキューが始まった。私はどんどん食べ、飲み物もいろんな種類のを好きに飲んだ。うちでは絶対出来ないからみんなもう夢中で食べたり飲んだりしている。
お腹が満たされると、大人が見守る中でみんな川辺で遊び始めた。
男子はもうサンダルを抜いで、川に入っている。
私もまきちゃんと手を繋ぎ生まれて初めて川に入った。きゃあ、と二人で笑いながら。冷たくて気持ちいい、本当に浅い川なんだ、これなら怖くない。
やがてそれも飽きて私は川から上がった。まきちゃんはまだ楽しそうに遊んでいた。
その後、徹くんから『水切り』を教わりやってみたけれどうまくいかない、つまんないの。途中で徹くんは友達に呼ばれて行っちゃうし。
私はブラブラとバスで来た道を歩いてみた。バスだと気がつかなかったけど上り坂なんだ。すると「あ、あかねちゃん」と言われた。見回すと、こっちこっち、と声がして、なんと道路から更に高い、河原と反対側の小高い山の様な所にみさちゃんがいた。
私は「みさちゃん、危ないよー」と言うと「大丈夫、大丈夫。そんなすごい高さじゃないよ」と言うので、興味もあり、道路より少し高いところをよじ登った。
登ってみると、なんだか河原とは全然違う感じだった。まるで山だ。ふと見ると話しながらずいぶん奥に入っていた。戻ろうよ、と言ってもみさちゃんは止まらない。
すると、ある所で崖のようになっていて行き止まりだった。
足元は草がやたら生えている。
二人でのぞき込んで「うわ、下見えないね」と言い、今度こそ、戻ろうと言い、私はくるりと踵を返した。その時みさちゃんが、私のTシャツの裾を強く引っ張ったのだ。「伸びちゃうからやめてよ、みさちゃん」と言って私はひっぱり返した。でもどこにもみさちゃんはいなかった。え?みさちゃん?「みさちゃーん、ふざけないで出てきてよ、帰ろうよー」と言ったがどこにもいない。
みさちゃんの立っていた辺りを見て、はっとした。私のいた所はちゃんと土があった。だけどみさちゃんのいたあたりは、足元には草が長く生え見えにくいが足元に土はなかった。みさちゃん、落ちたんだ、だからとっさに私の服をつかんだんだ。
私は振り返らず必死に走った。
知らない、知らない、だってみさちゃんの足元なんて、私にはわからないもん。戻ろうよって言ったのに。
河原に戻ると私はさっき徹くんが石切りしてたあたりで、平たい石を一生懸命見つけては、川に投げた。見つけては投げ、見つけては投げをずっと繰り返していると、とうとう水を一度跳ねて、ぽちゃん、と川に落ちた。
私は段々おもしろくなり、石を見つけると溜めておいて、続けて何度も何度も力いっぱい投げた。すると、とうとう向こう岸まで跳ねて届いた。やったぁ、するとすずちゃんが「あかねちゃん、こんな所にいたんだ、ねえ、シロツメクサの首飾り作ろうよ」と言われてすずちゃんに教えてもらってきれいな首飾りが出来た。
辺りを見ると、女子は花飾りを、男子は川で遊んでいた。
私も手首にはめて、どう?とすずちゃんに言うと、あかねちゃんすごーい、と言われたので嬉しくて作ってあげた。
すると、大人に「おーい、そろそろ帰るからバスに乗ってー」と言われた。
男子はなかなか川から出なくて大人に怒られていた。おかしくてバスで隣通しに座って、すずちゃんと笑っていた。今日は本当に楽しかったな、少し疲れたけれど。
すると酒屋のおじさんがバスに乗ってきて、「みさちゃんがいないんだけど、誰か知らないかな?」と言った。
その瞬間、そうだ、みさちゃんの事忘れてた、とあらためてさっきの事を思い出しどうしよう、と心臓がすごい早さでどくんどくんといっている。
「一緒に遊んでいた人はいる?」と言われても、誰も何も言わなかった。
かおりちゃんが、一緒にシロツメクサで首飾りを作ったと言った以外は。
そして大人達は警察に電話をした。
大変な事になった。みんなざわざわしていた。こんな大騒ぎになるなんて、どうしよう、私捕まるのかな、そんなの嫌だよ。
警察官がたくさん来た。
パン屋のおばさんに付き添われ、女の警察官の人に、みんな一人ずつ聞かれた。
こわい。次は私の番だ。
パン屋のおばさんは「おばさんがついてるからだいじょうぶ」と言ってくれた。
パトカーの中で優しく聞かれた。
みさちゃんを見なかったか、一緒にいなかったか、と。
私はまきちゃんと川遊びをしたあと徹くんに教わり、できるまで石切りをして、その後すずちゃんとシロツメクサで首飾りや手首の飾りを作っていた、と言った。それはちゃんと言えた。だって本当にそれはしたから。
みんなの証言を照らし合わせ、私が川遊びをしたあと、徹くんから石切りを教わり、すずちゃんとシロツメクサで首飾りなどを作っていた事が証明された。誰も疑わなかった。
その後、何度も警察が調べたり、テレビや新聞にも取り上げられたけど、みさちゃんは見つからなかった。
その後、いろいろな事件や事故が毎日起き、みんなの頭から忘れ去られていった。
あれからもう二十年経つけれど、私はずっと怯えていた。みさちゃんに引っ張られた服を振り払った事が心に深い傷として刻まれた。
でも、誰にも言えない。だってこれは誰にも言えない私だけの秘密だから。
『狭い部屋』
私はいつもとても狭い部屋にいる。私の名前はユイ。名前をつけてくれたのはマイだ。
私達は一つの体を二人で共有している。私は実体のない意識だけの存在。
でもマイがこの世に生を受けた時から一緒に私も誕生した。
マイは明るくて学校でも学級委員長をやるくらい、はきはきしていてみんなからの人望も厚い。成績だっていい。
私はマイの中のこの狭い部屋の中で
マイと一緒に十七年間生きてきた。
なのでちゃんと十七才としての知識や感情もある。
お誕生日、友達もみんなマイに「はい、これお誕生日のプレゼント」とプレゼントを渡してくれる。
うちに帰っても夕食はマイの好きな物ばかり並び、最後はケーキも出てきて家族で「マイ、お誕生日おめでとう」と祝ってくれる。
私は夜、部屋に戻ったマイが「ユイ、ユイもお誕生日おめでとう」と小声で言ってくれる。ありがとう、と直接マイの頭の中に思考として伝える。
私に変化が訪れたのはマイに彼氏ができた時から。
同じ美術部の池谷くんだ。マイは初めて見た時から好きだったようだった。一緒に活動するようになり、池谷くんから告白されて頬を赤らめて交際する事になった時からだった。
いいな、マイは。今までもいつも狭い部屋でそう思っていたけれど私は意識だけの存在。諦めていた。
もとは一人の人間なのでマイの好きな物は私も好きな物だ。
だから池谷くんと付き合いだした時不満が一気にジェラシーになった。
本当は体の所有者は私、ユイだったかもしれないのだ。そうしたらこの狭い部屋にずっといるのはマイだったかもしれない。
外に出てみたい、とその時初めて思った。
だからマイが疲れて早く寝た夜に意識を入れ替わったのだ。
私、ユイは生まれて十七年間で今夜初めて肉体を得た。
不思議な感じだった。
いつも肉体の中に居るだけだったのに、今はこうして自由に動ける肉体をついに手に入れたのだ。
マイのパジャマを脱ぎ捨てクローゼットからマイの服を出して着てみた。
マイが以前買ってそっと引き出しにしまってある、口紅も塗ってみた。
マイは肩甲骨まである長い髪をいつもは必ずポニーテールにしている。
子供っぽくて私は嫌だったのでヘアアイロンで巻いてみたら、とても大人びた感じになった。
マイの持っているアクセサリーケースを開けてみるとどれも変な物ばかりでその中で、唯一好みのイヤリングがありそれを着けた。
バッグを持ちそっと玄関に行き、マイの靴を履き静かに外に出た。
夜の町はマイも知らないので私も初めてだった。
夜だというのに町は明るくて驚いた。
お店もやっているし昼間とは全然雰囲気が違って見える。
ファッションビルがあったので入ってみる。いろいろなお店が入っていて夜でも営業しているのでびっくりする事ばかりだった。
気がついてバッグの中のお財布を開けてみるとお小遣いとバイト代でけっこうお金が入っていた。
まずはこの趣味じゃない服装をなんとかしないと。
おしゃれなお店に入り私らしい服を選ぶ。気に入ったのでディスプレイのサンダルも買って、全身真新しい物を身に着けお店の中を見て歩く。
男の人の視線を感じる。心地よかった。
私は、ユイとして生まれて初めて自分の意志で好きな事をしている。
それがとても嬉しかった。
喉が渇いたので一軒のお店に入り、飲み物を注文し待っている間にマイのバッグからスマホを出す。
マイがいつもやっているように池谷くんに電話してみる。
しばらくすると池谷くんが入ってきた。見回しながら視線が何度も私を通りすぎるので、仕方なく手で合図するとやっと目が合い、なんだか妙にぎこちなく恐る恐るといった感じで近づいてくると私に「マイ?だよね?」と言うので、わからなかった?と言うと、「だっていつもの休みの日のデートの時と全然雰囲気が違うから」と少し戸惑った様に言う。
私は昼間でもマイの中で寝ている事が多いので、昼間休みの日に何度も池谷くんとマイがデートしてた事に気づかなかった。嫉妬を覚えた。
マイから池谷くんを奪いたい、とはっきり思った。
「マイ、夜にいつもこんな事してるの?」とおずおずと池谷くんが言う。私はとんでもない、といった表情であっけらかんと池谷くんに言った。
「まさか、初めてなの。クラスの子がマイは夜の町も知らないのって言うから、今夜は思い切ってちょっと大人っぽくして来てみたの。でも私にはやっぱり似合わないみたいだし、ドキドキしてるの」と少し自信なさげな様子を装って胸に手を当てる。
「そうなんだ、友達にそそのかされたのか。僕も少しドキドキしてるよ」と言うので「夜、出かけた事に?」と、池谷くんを覗き込むように言うと
「いや、マイがなんだか別人みたいにきれいで」
そういった池谷くんの顔がほんのり赤くなる。
「えぇ?!私が?そんな」と言って頬を両手で押さえて、目を見開き大袈裟に驚いてみせる。
池谷くんはもう私のものよ、マイ。
心の中で狭い部屋で何も知らず眠るマイに私は言う。
これからは私がマイよ。大丈夫。今まで一緒に生きてきたから全部わかるわ。
今度は、あなたがその狭い部屋で過ごすのよ。
なんという事か、一昨日『正直』のお題で一緒に『失恋』も書いてしまいました。
もう書けません……
『正直』
私、あゆみは、高校から一緒だった直人とつきあって、はや十年になる。同じ大学を出て、違う企業に入った。
会社に入った頃はデートというと、お互い、やっぱり会社に勤めるというのは大変だ、とか、やっちゃったよ〜、などと泣き言が多かったが、さすがに勤めて三年目となると後輩もできて、仕事も先輩から少しずつ任されてやり甲斐を感じる事が出てくる。
特に直人はとにかく正直が歩いているようなものなので、不動産の会社に勤めたが上司や先輩からも、その性格の良さ、実直さが認められお客さんの受けもいいらしい。
私は、アパレル関係に憧れていて入ったので、今では先輩からも「私が一日休んでもあゆみちゃんがいるから大丈夫ね」と言われるようになった。
やりたい仕事だったので慣れると楽しい。
私も直人も休日は仕事なので合わせられる時は、平日に休みを一緒に取り出かけたりしている。
私は最近少し気になる事がある。
それは、この春新卒で入った女の子の教育担当が直人だということだ。
とにかく一からつきっきりで教えているようだ。
歓迎会の写真を見せてもらったが、色白の目が大きい可愛い子だった。
「ふーん、この子に教えてるんだ、つきっきりで、直人が」と言うと顔を下に向けて笑っている。何よ、と言うと
「もしかしてあゆみ、妬いてるの?」と言われた。図星で顔が赤くなる。すると直人が優しい顔で私に
「僕が好きなのは、ずっとあゆみだけだよ。この子はただの後輩。僕も先輩からつきっきりで仕事を教えてもらったからね。順番だよ」と言う。
直人の時の先輩は男の人だったじゃない、と心の中で呟く。
でも直人が言葉にしてくれたことで私の気持ちは落ち着いた。
直人は正直だから、本当に私のことを大事にしてくれて好きでいてくれるのがよくわかるから。
それから、直人が本社に行くことになった。後輩のその女の子を連れて。
私は「気をつけて行ってきてね」と「美味しいお土産よろしくね」をつけ加えるのを忘れなかった。直人はあいかわらずあゆみは食い気だね、と笑った。
その後帰って来た直人からは「ごめんね、仕事ですぐ会えないから悪くならないうちにお土産送ったよ」とLINEが来た。休みが必ず同じ日に取れないことがあるので、気を利かせてくれたのだろう。ありがとう、美味しかったよ、と返事を送った。
秋になりお店はひと足早く冬物を並べ始めた。冷たい風が枯れ葉を舞い上がらせる頃にはお店はどこもクリスマス一色になり、仕事もだんだん忙しくなる。
なかなか直人とは会えずにいた。
何しろ休みが合わないのだ。
お互い、好きで選んだ仕事だけどこういう時は普通の日曜休みの会社員が羨ましくなる。
直人もなかなか忙しいようで休みの日は疲れて寝て過ごしている、とLINEが来る。
疲れているんだ、直人。
返事はいいから、と最初に必ず入れて体調の心配をしたりちゃんと食べているのかなどLINEを送る。
額面通りに受け取ったのか(それも直人らしいが)忙しくて疲れているのか、読むのも疲れるのか既読はなかなかつかない。だんだん心配になってくる。
ある夜更けに思い切って電話してみた。なかなか出なくて心配になったが
「あゆみ?」と懐かしい直人の声だ。それだけで涙が出そうになる。
もう、何か月会ってないのだろう。
「直人、久しぶり」と言うと責めたと思ったのか直人が慌てたように
「ごめんね、あゆみ」と言った。
声に元気がない。心配だ。
「そう言えばね」と明るく言い、大学時代の私と直人の共通の友人の何人かが、年末に集まろうと言ってきたのだ。年明けまでいるから集まれる日がわかったら連絡して欲しい、と言われていたのだった。
「直人、またお休み取れそうな日教えてね。出来るだけ私も合わせるから」
そう言っても何も言わない。
どうしたのだろう具合でも悪いのかな、と心配になり聞こうとすると
「あゆみ、仕事のあとでいいんだけど、明日会えるかな」と言われた。
びっくりした。以前誘ったら仕事の後は疲れて無理だよ、と言っていたのに。嬉しくて私はすぐに、うん、いいよ、と言った。
思い切って電話して良かった。
私は頭の中で何を着ていこうと考え、今夜は眠れるかなと思った。
見事なくらい爆睡し、気合を入れた服を着ていく。お店のロッカーで先輩が「おやおやあゆみちゃん、気合十分じゃない、久しぶりにデート?」と言われてしまった。顔が、つい緩む。「彼氏さん同い年だっけ?仕事がおもしろくなってくる頃だね」
その日、先に上がる先輩が「あゆみちゃん、今日は久しぶりなんだから代わるよ」と言われ断ったのに、早く会いたいでしょ、と先に上がらせてもらえたのだった。ずいぶん早く着いちゃうかな、と思いながらも嬉しくてつい早足になる。
待ち合わせは懐かしい、よく行っていた居酒屋さんだった。チェーン店ではないのでけっこう美味しい物を出してくれる。約束は九時だったのに三十分も早く直人は来ていた。
久しぶりにみる直人はなんだか雰囲気が少し変わった気がした。
「直人」と声をかけると、ぼんやりしていたのか慌てて笑顔で手を振る。
私は、はっとした。なんだかわかってしまった、直人が今夜呼び出した訳が。私はここで何度も何度も待ち合わせて、笑いながら直人とたくさん話して飲んで楽しかった事を振り返っていた。
ゆっくり、ゆっくり近づいていく。いつの間にか拳をぎゅっと力を入れて握っていた。
「ごめんね、疲れているのに」直人はそう言い、慌てたようにテーブルの上のビールと枝豆を端に寄せながら
「その、あゆみがもっと遅いと思って何か頼まないといけないかと」と言い訳がましく言った。
そうだよね、アルコールの力を借りなきゃ、直人には言えないよね。
ともすれば涙が溢れそうになるのを奥歯を噛み締めぐっとこらえた。
「いつからなの?後輩ちゃんとつきあってるのは?」笑いながら言うと直人は目を見開いて驚いている。
「今日は私にさよならを言いに来たんでしょう?」うなだれた直人は力なく
「ごめんねあゆみ。あゆみは何も悪くないんだ」と言った。
後輩の女の子を連れて、本社に行った時、緊張のし過ぎでその子が気持ち悪い、と言い出し、トイレで吐いたそうだ。熱っぽくて、帰れないから会社に連絡して駅の近くのホテルに一晩泊まって看病したそうだ。
その後輩の子は、直人に、迷惑かけてすみませんすみません、と涙をこぼしたそうだ。
きっと、気持ちが動転しているのだろうと、落ち着かせようと背中をさすったら「先輩、そばにいてください」と熱で熱い体で抱きついてきたという。
「ちょ、ちょっと待って」と言ったけれど、「私、先輩の事ずっと好きでした。だめですか?」と熱い体で抱きついたままで、倒れ込んだのだそうだ。
「なんだか、振り払えなくて、それで」そんな細かい事、言わなくていいのに。LINEで済ませてもいいのに。
「こんな時まで、直人は正直だね」
私は直人のその正直さが好きだった。
でも今は、その正直さにざっくり傷ついている。
私を傷つけるとわかっていても、私が怒って責めるかもしれないのに、会って話さなきゃ、という直人の正直さは今はただ残酷でしかなかった。
「私、もう行くね。さよなら」
と言うと、後ろで直人があゆみ、と言っていたが一刻も早くお店を出たかった。外に出ると外のお店が歪んでゆらゆら見えた。
あーあ、振られちゃった。
十年も一緒にいたのに。
後輩ちゃん、直人を大事にしなよ。
こんな正直で誠実な人、滅多にいないんだから。
あちこちから早くもクリスマスソングが聴こえてくる。
背中で音楽を聴きながら私の足元にはまるで雨粒のような跡がついていく。