紙ふうせん

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『正直』

私、あゆみは、高校から一緒だった直人とつきあって、はや十年になる。同じ大学を出て、違う企業に入った。
会社に入った頃はデートというと、お互い、やっぱり会社に勤めるというのは大変だ、とか、やっちゃったよ〜、などと泣き言が多かったが、さすがに勤めて三年目となると後輩もできて、仕事も先輩から少しずつ任されてやり甲斐を感じる事が出てくる。

特に直人はとにかく正直が歩いているようなものなので、不動産の会社に勤めたが上司や先輩からも、その性格の良さ、実直さが認められお客さんの受けもいいらしい。

私は、アパレル関係に憧れていて入ったので、今では先輩からも「私が一日休んでもあゆみちゃんがいるから大丈夫ね」と言われるようになった。
やりたい仕事だったので慣れると楽しい。

私も直人も休日は仕事なので合わせられる時は、平日に休みを一緒に取り出かけたりしている。

私は最近少し気になる事がある。
それは、この春新卒で入った女の子の教育担当が直人だということだ。
とにかく一からつきっきりで教えているようだ。
歓迎会の写真を見せてもらったが、色白の目が大きい可愛い子だった。

「ふーん、この子に教えてるんだ、つきっきりで、直人が」と言うと顔を下に向けて笑っている。何よ、と言うと
「もしかしてあゆみ、妬いてるの?」と言われた。図星で顔が赤くなる。すると直人が優しい顔で私に
「僕が好きなのは、ずっとあゆみだけだよ。この子はただの後輩。僕も先輩からつきっきりで仕事を教えてもらったからね。順番だよ」と言う。

直人の時の先輩は男の人だったじゃない、と心の中で呟く。

でも直人が言葉にしてくれたことで私の気持ちは落ち着いた。
直人は正直だから、本当に私のことを大事にしてくれて好きでいてくれるのがよくわかるから。

それから、直人が本社に行くことになった。後輩のその女の子を連れて。

私は「気をつけて行ってきてね」と「美味しいお土産よろしくね」をつけ加えるのを忘れなかった。直人はあいかわらずあゆみは食い気だね、と笑った。

その後帰って来た直人からは「ごめんね、仕事ですぐ会えないから悪くならないうちにお土産送ったよ」とLINEが来た。休みが必ず同じ日に取れないことがあるので、気を利かせてくれたのだろう。ありがとう、美味しかったよ、と返事を送った。

秋になりお店はひと足早く冬物を並べ始めた。冷たい風が枯れ葉を舞い上がらせる頃にはお店はどこもクリスマス一色になり、仕事もだんだん忙しくなる。

なかなか直人とは会えずにいた。
何しろ休みが合わないのだ。
お互い、好きで選んだ仕事だけどこういう時は普通の日曜休みの会社員が羨ましくなる。

直人もなかなか忙しいようで休みの日は疲れて寝て過ごしている、とLINEが来る。

疲れているんだ、直人。
返事はいいから、と最初に必ず入れて体調の心配をしたりちゃんと食べているのかなどLINEを送る。

額面通りに受け取ったのか(それも直人らしいが)忙しくて疲れているのか、読むのも疲れるのか既読はなかなかつかない。だんだん心配になってくる。

ある夜更けに思い切って電話してみた。なかなか出なくて心配になったが
「あゆみ?」と懐かしい直人の声だ。それだけで涙が出そうになる。
もう、何か月会ってないのだろう。

「直人、久しぶり」と言うと責めたと思ったのか直人が慌てたように
「ごめんね、あゆみ」と言った。
声に元気がない。心配だ。

「そう言えばね」と明るく言い、大学時代の私と直人の共通の友人の何人かが、年末に集まろうと言ってきたのだ。年明けまでいるから集まれる日がわかったら連絡して欲しい、と言われていたのだった。

「直人、またお休み取れそうな日教えてね。出来るだけ私も合わせるから」
そう言っても何も言わない。
どうしたのだろう具合でも悪いのかな、と心配になり聞こうとすると
「あゆみ、仕事のあとでいいんだけど、明日会えるかな」と言われた。

びっくりした。以前誘ったら仕事の後は疲れて無理だよ、と言っていたのに。嬉しくて私はすぐに、うん、いいよ、と言った。

思い切って電話して良かった。
私は頭の中で何を着ていこうと考え、今夜は眠れるかなと思った。

見事なくらい爆睡し、気合を入れた服を着ていく。お店のロッカーで先輩が「おやおやあゆみちゃん、気合十分じゃない、久しぶりにデート?」と言われてしまった。顔が、つい緩む。「彼氏さん同い年だっけ?仕事がおもしろくなってくる頃だね」

その日、先に上がる先輩が「あゆみちゃん、今日は久しぶりなんだから代わるよ」と言われ断ったのに、早く会いたいでしょ、と先に上がらせてもらえたのだった。ずいぶん早く着いちゃうかな、と思いながらも嬉しくてつい早足になる。

待ち合わせは懐かしい、よく行っていた居酒屋さんだった。チェーン店ではないのでけっこう美味しい物を出してくれる。約束は九時だったのに三十分も早く直人は来ていた。
久しぶりにみる直人はなんだか雰囲気が少し変わった気がした。
「直人」と声をかけると、ぼんやりしていたのか慌てて笑顔で手を振る。

私は、はっとした。なんだかわかってしまった、直人が今夜呼び出した訳が。私はここで何度も何度も待ち合わせて、笑いながら直人とたくさん話して飲んで楽しかった事を振り返っていた。

ゆっくり、ゆっくり近づいていく。いつの間にか拳をぎゅっと力を入れて握っていた。

「ごめんね、疲れているのに」直人はそう言い、慌てたようにテーブルの上のビールと枝豆を端に寄せながら
「その、あゆみがもっと遅いと思って何か頼まないといけないかと」と言い訳がましく言った。

そうだよね、アルコールの力を借りなきゃ、直人には言えないよね。
ともすれば涙が溢れそうになるのを奥歯を噛み締めぐっとこらえた。

「いつからなの?後輩ちゃんとつきあってるのは?」笑いながら言うと直人は目を見開いて驚いている。
「今日は私にさよならを言いに来たんでしょう?」うなだれた直人は力なく
「ごめんねあゆみ。あゆみは何も悪くないんだ」と言った。

後輩の女の子を連れて、本社に行った時、緊張のし過ぎでその子が気持ち悪い、と言い出し、トイレで吐いたそうだ。熱っぽくて、帰れないから会社に連絡して駅の近くのホテルに一晩泊まって看病したそうだ。
その後輩の子は、直人に、迷惑かけてすみませんすみません、と涙をこぼしたそうだ。
きっと、気持ちが動転しているのだろうと、落ち着かせようと背中をさすったら「先輩、そばにいてください」と熱で熱い体で抱きついてきたという。

「ちょ、ちょっと待って」と言ったけれど、「私、先輩の事ずっと好きでした。だめですか?」と熱い体で抱きついたままで、倒れ込んだのだそうだ。

「なんだか、振り払えなくて、それで」そんな細かい事、言わなくていいのに。LINEで済ませてもいいのに。

「こんな時まで、直人は正直だね」
私は直人のその正直さが好きだった。
でも今は、その正直さにざっくり傷ついている。
私を傷つけるとわかっていても、私が怒って責めるかもしれないのに、会って話さなきゃ、という直人の正直さは今はただ残酷でしかなかった。

「私、もう行くね。さよなら」
と言うと、後ろで直人があゆみ、と言っていたが一刻も早くお店を出たかった。外に出ると外のお店が歪んでゆらゆら見えた。

あーあ、振られちゃった。
十年も一緒にいたのに。

後輩ちゃん、直人を大事にしなよ。
こんな正直で誠実な人、滅多にいないんだから。

あちこちから早くもクリスマスソングが聴こえてくる。

背中で音楽を聴きながら私の足元にはまるで雨粒のような跡がついていく。

6/2/2023, 2:43:29 PM