1000年先も
『保名殿、吾子のために今宵も笛を聴かせていただけませぬか。』
静まる宵の森。蝋燭の光が照らすあばら家で。女は膨らんだ大きなお腹を撫でる。
『ああ、葛の葉よ。吾子の為ならばいくらでも聴かせてしんぜよう。』
すうっと男が笛を構えれば、きりりと冷えた空気を撫でるような音楽が流れ出す。
この女は狐だった。名は葛の葉。命の恩人である安倍保名(やすな)を大層愛していた。助けてもらったからというのは名目でしかなかった。
この翌朝、葛の葉は無事に子を産む。その子は後に安倍晴明と言われるようになる。閑話休題。
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『そんな.....まさかそんな.....』
時は長く過ぎた。夫とまだ童子だった子に自分の正体が狐であることを知られた葛の葉は、故郷である信太森に居た。
遠い噂で愛した彼の訃報を聞いたのは、出産前に笛を吹いてもらった日と同じ、きりりと冷える夜だった。
いてもたってもいられない彼女は、狐の姿になり森を駆ける。頭に過ぎるは、彼との想い出。葛の葉はまだ保名に深く恋慕していた。離れていても、とても大事に思っていた。種族が違い、葛の葉は永く生きる。先に彼が死んだとしても、愛するのはただひとり。そう、千年も万年も愛する覚悟があった。
走って、走って、走って。
やがて朝日が登り始めた頃にケーン!と甲高い獣の鳴き声が森から響いてきたそうな。
不気味な声に聞こえれば、哀しい声に聞こえた者もいた。
『貴方様の笛が、聴きとうございます。保名殿。』
___安倍晴明出生説話より
勿忘草(わすれなぐさ)
※前日の『ブランコ』と対になっていますのでよろしければ読んでみてください。
私はもう死んでる。死んだあの日のまま、ずっとあなたの横にいる。
私の十三回忌、似合わない喪服を着て私の両親に挨拶するあなた。それを遠くからぼーっと眺める。何も感じない体に、最近感じた自分の体の透明感。つま先があるようでない、氷が溶けるかの如く世界に同化していく感覚。
最寄りの駅まで歩いていたあなたは、不意に足を止める。目線の先には幼い頃よく遊んだ公園があった。今では遊具の色は塗り替えられ、撤去されたものもあれば新しく仲間入りしたものもある。それでもブランコだけは昔のままだった。懐かしいそれに腰かけるあなたの相向かいに座る。だが、ブランコの鳴き声はひとつだけ。それがたまらなく寂しい。
『もう、辞めてくれ。』
そう言って君は喪服を濡らしていく。
『気づいていたんだね。』
あえて生前のように笑って話かけたが、こちらの声は聞こえていない。それをいい事に私の感情が流れ出す。自分の終わりを悟って。
『あのね、私、子供の頃からずっとあなたのことが大好きだよ。ずっと、ずっと、これからもきっと。これが大人の言う《愛してる》なのかな。』
あなたの涙は止まらない。私が見たいのはそんな顔じゃないのに。
『ねえ、笑って。』
あなたの代わりに私が涙を流すから。
勿忘草:真実の愛、私を忘れない
ブランコ
杏色の空の下、アスファルトを革靴で鳴らしながら歩く。それに合わせて引き出物の袋がゆらゆら揺れる。
地元の道、小さな公園。そこは少年時代の思い出が詰まった場所。君との思い出が濃すぎる場所。
誘われるようにふらりと入り、ブランコに腰かけた。あの頃とは違う色、違う目線。変わらないのは隣に座っている君。
喪服のネクタイを乱暴に緩める。古いブランコはキィと泣く。
『なあ、もう辞めてくれないか。お前はただの都合のいい亡霊だ。』
君はあの時の笑顔、あの時の澄んだ青いワンピース。何も言わなかった。
少年時代の甘酸っぱい記憶が走る。そして血の匂いのする記憶も。
『もう、辞めてくれ。』
黒のパンツにひとつ、ふたつと染みが出来ていくのを彼女はただ眺めるだけだった。
旅路の果て
ひとり、またひとり思い浮かべる光景は違うだろう。今日もまた辛いことに顔を歪める1日だった。遥か遠いそれを想って目を瞑る。このまま息が止まったら果てにいけるだろうか。その場合、そこは旅路の果てと言えるのであろうか?そんな馬鹿げた事を考えながら今日も湯気のたつカップラーメンを独りで啜る。