1000年先も
『保名殿、吾子のために今宵も笛を聴かせていただけませぬか。』
静まる宵の森。蝋燭の光が照らすあばら家で。女は膨らんだ大きなお腹を撫でる。
『ああ、葛の葉よ。吾子の為ならばいくらでも聴かせてしんぜよう。』
すうっと男が笛を構えれば、きりりと冷えた空気を撫でるような音楽が流れ出す。
この女は狐だった。名は葛の葉。命の恩人である安倍保名(やすな)を大層愛していた。助けてもらったからというのは名目でしかなかった。
この翌朝、葛の葉は無事に子を産む。その子は後に安倍晴明と言われるようになる。閑話休題。
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『そんな.....まさかそんな.....』
時は長く過ぎた。夫とまだ童子だった子に自分の正体が狐であることを知られた葛の葉は、故郷である信太森に居た。
遠い噂で愛した彼の訃報を聞いたのは、出産前に笛を吹いてもらった日と同じ、きりりと冷える夜だった。
いてもたってもいられない彼女は、狐の姿になり森を駆ける。頭に過ぎるは、彼との想い出。葛の葉はまだ保名に深く恋慕していた。離れていても、とても大事に思っていた。種族が違い、葛の葉は永く生きる。先に彼が死んだとしても、愛するのはただひとり。そう、千年も万年も愛する覚悟があった。
走って、走って、走って。
やがて朝日が登り始めた頃にケーン!と甲高い獣の鳴き声が森から響いてきたそうな。
不気味な声に聞こえれば、哀しい声に聞こえた者もいた。
『貴方様の笛が、聴きとうございます。保名殿。』
___安倍晴明出生説話より
2/3/2024, 1:05:05 PM