日記をつけることが習慣になっていたのは、いつ頃からだろうか。
あの人と暮らし始めて、文字を習って、日記というものを教えて貰って、それから、いつの間にか日記をつけることが習慣になっていた。
ひらがなばかりの簡単なものから、使いこなせるようになった言葉で書いた長いもの。
時間の経過と共にそうなっていった。
今日も、ペンを手に取ってノートを開く。
「珍しく全員で旅行に行った。
今日一日目は水族館。宿はあの人が温泉街の宿を取ってくれていたらしい。あの人がそんなことするなんて珍しい。
明日は温泉街巡り、明後日は俺はまだ知らない。話聞いてなかったかも。
ここの宿、露天風呂もあるらしいし、後で誰か誘って行こうかなぁ」
そう書いて、ノートを閉じる。
明日は何を書こうか。
殆どが寝静まって街の灯りも幾分か減ったころ、彼は唐突に「海、行きましょうよ」と俺に言った。
急に言われて驚いたけれど、何しろ自分も海なんて数年間行っていないから二つ返事で二人で車に乗り込んだ。
十数分車を走らせると、微かに潮風が漂ってくる。
車を降りると、ざざん、ざざん。波の音が聞こえた。
砂浜を時々倒れそうになりながら歩く。
靴と靴下を脱いで水に爪先をつける。
ちゃぷ、と微かな水音がして、冷たさがじわりと体に伝わった。
不意に水を掬う音がして、何かと思って振り向くと、手の中に水を溜めていたずらげに笑っている彼がいた。
「海来てはしゃがない奴なんていないでしょ?先生」
そう言って、彼は俺に向かって手の中に溜めていた水をぱしゃりと掛けた。
「ちょっと、」
「ほら、先生!楽しみましょうよぉ~」
そう言って笑う彼に、仕返しでまた水を掛けてやったらからからと無邪気に笑った。
大人気なく二人で数十分遊んだ後は、お互いとても疲れきっていた。
「任務では疲れないんですけどね~…これは、良い運動になりましたぁ……」
「君は触手使うから疲れないでしょそりゃ…」
他愛のない話をしながら車に乗り込んだ。
すると彼は、思い出したように言った。
「あ、またいつか、海に行きましょうよ」
時々、自由に空を飛べたら、なんてことを考える。
それこそ、鳥のように自由に空を飛び回れたらどんなに良いだろうと。
でもそんなことを考えたところで背中に羽は生えてこないし、空が飛べるようになるわけでもない。
所詮、そういうものなんだ。ただの空想物語にすぎない。
そんなこと、もうとっくにわかりきっていることだけれど、見てしまった。
何にも縛られずに、鳥のように飛び回る彼の姿を。
それも、こちらに手を差し伸べて「一緒に行こう」なんて言ってくれたものだから。
だから、迷わず手を取った。
鳥のように飛び回る彼の姿に惹かれて、彼とならどこまでも行けるなんて思って。
だって、どこまでも連れて行くなんて口説かれてしまったから。
これは、私の初恋だった。
共用スペースには今二人だけ。
僕は暖かいココア、隣に座る彼はアールグレイの紅茶。
蝉の鳴き声と温い風が窓から吹き込んでくる。
「ねぇ、例えばの話、しても良いですか?」
彼が不意に言った。
「もちろん、良いよ」と僕が言うと、彼はそう言ってくれると思ってた、なんて言うように微笑んだ。
「ほんとにもしもの話ですよ?…もし、私がいなくなったら、どうしますか」
予想外の質問に思わず狼狽える。
すぐには答えられなかったけれど、少し考えて答えを出した。
「捜しに行くよ。たとえ君がどこまで行っていても、もういなくなっていてもね」
そう答えると、暑かったのかローブを脱ごうとしていた彼の動きが止まる。
「…へぇ。なんかいがぁい」
「意外ってなに。失礼な…」
「だって、あなた現実から逃げるように創作にのめり込むんじゃないかと思うんですもん」
「あはは、そうかもしれないね。でも、捜すことは変わらないよ」
「そうですか。…良かった」
どうしてそう答えたのかを聞かれたけど、僕は答えなかった。
さよならを言う前にいなくなっちゃったら、悲しいからなんて言えなかった。
ざあざあと降りしきる雨は、煩わしいとすら思う。
よく通うアンティークショップの中で、そう思った。
数分前まで晴れていたのに、店から出るところで夕立が降り始めた。
「遣らずの雨ってやつですかね、これ」
俺がそう言うと、隣の彼がふと笑った。
「うん、そうかも。俺たちのこと、引き留めてるんだね」
なんでだろう、と呟いた普段よく響くテノールの声は、この日は雨で掻き消された。
「もう少し見て回りましょうよ」
そう言って彼の手首を少しだけ強く掴んで店の中に戻る。
アンティークショップの中はオルゴール調の音楽が流れており、暖かい灯りの中にはきぃと軋む床と商品、カウンターの上で眠る看板猫。
すっかり見慣れた、お気に入りの景色。
「ねぇ、これ良いと思わない?」
声がした方を振り向くと、カラメル色の艶のある木材で作られたアクセサリーケースに釘付けになっている彼がいた。
「あぁ、これ。…確かに、良いんじゃないんですか?よく合いますよ」
折角だから買っちゃいましょうか、と言うと彼は驚いたように動きを止めた。
そんなにポンと買えるほどの値段ではないが、運良く鑑定の仕事で報酬が入ったから、それだけのこと。
「悪いね。…今度、何か奢るよ」
カウンターで猫を撫でていると、彼から言われた。
「えぇ~、良いんですかぁ?」
そう言うと、「勿論。流石に何もしないのはアレでしょ」と返ってきた。
猫が手をすり抜けたので、そろそろ帰ろうと店の扉を開けて外に出る。
「じゃあ、俺美味しい中華知ってるんでそこに行きましょうよ」
空は綺麗な夕焼けが一面に広がっていた。