あいまいな空
ある日、空が突然溶け始めた。
最初はただの雨だと思った。しかし雨が降っているのに空は晴れていて、その雨粒には空のような色がついている。大きくて、柔らかくて、空のように美しく暖かい雫。なんだか色と雲の境界があいまいに見える空。確実に空が溶けていた。
昔、中国の杞の国で、空が落ちてくるのを心配した人がいたそうだ。それは「杞憂」に終わったらしいが、本当に溶けて落ち始めてしまえば杞憂には終わらない。人々は、空が全て溶けて落ちきってしまうのを憂えた。
しかし、悪いことばかりではなかった。
「見てよこれ、超綺麗じゃない?最高傑作かも!」
幼馴染の加奈が見せてきたのは、美しい夕暮れを閉じ込めた小瓶だった。似た色のビーズやリボンで上手くデコレーションされていて、どこかに飾りたくなる見た目だ。
「綺麗だな…」
「でしょー?昨日の夕方に拾った空なんだ!あんたもやってみたら?拾って入れて飾るだけだよ!」
「いや、俺は遠慮しておく」
「もー、あんた本当にハンドメイドに興味無いよね…」
「加奈ほど綺麗には作れないからな。尊敬する」
「えへへぇ」
溶けた空の雫は溶けた瞬間から劣化しない、ということが好奇心旺盛な加奈により発見され、はや1週間。
空の雫をケースに入れて飾りつけると綺麗だ、ということがハンドメイド好きの加奈により発見され、はや6日。
SNSで空を加工するのが流行りだしてから、はや3日。
人々は、落ちてきた空を楽しんでいた。
「空最高、綺麗なの無限に作れる…次はキーホルダーとk」
「痛っ!?」
「あはは、空が頭に!ぶつかっても別に痛くないでしょ」
「…ただの条件反射だ」
ーーー
やはり世の中、いいことばかりではない。落ちてきた大量の空は全く劣化せず、もちろん消えることもない。人類は空をどう処理したものかと途方に暮れた。とりあえず空き地に山々と積まれた空を見に行ってみたが、色とりどりの空が地上まで続いているような美しい錯覚を覚えた。しかし、もうすぐあの場所は空で溢れてしまうだろう。
空の飽和は最早、社会問題と言ってよかった。
「これからどうなっちゃうんだろうね。最初は綺麗だと思ってたけど…いや今も綺麗だとは思うけど、流石に多いね」
「限度ってもんがあるよな。空の処理のために使われてる土地もかなり増えたらしい」
「上にあるほうの空も、ドロドロ溶けた感じなのに見慣れちゃった。元々空ってどんなだっけ…」
「…まだ、降るのか…?」
大量に落ちてくる空。地上に溢れかえる空。空と地上の境界は、日に日に曖昧になっていく。
その状態にすっかり慣れきってしまった人類。かつての空の記憶も、だんだん曖昧になっていく。
ぽつりぽつり、空が降る。空と空との曖昧な境界。
「…空って食べられるのかな?」
「見た目的にはゼリー系に見えなくもない」
「食べちゃおうかな」
「色々とダメじゃないか…?なんかダメな気がする」
ぼとぼとぼと、空が降る。また何かが曖昧になる。
「いっぱい降るね…地上が空みたい」
「空の上みたいだ」
「なんか…元から空に住んでたような」
「地上ってなんだっけ」
空が降る。空が降る。空と空で満たされる。
曖昧さで満たされる。
杞憂じゃなかった。空の小瓶。もぐもぐ。
あいまいな空が広がる。
あじさい
とある梅雨の日、僕は帰り道で紫陽花の花びらを発見した。あじさい。雨とカタツムリの似合う花。雨がしとしと降っていて、僕も町の人々も傘を差していた。足もとに点々と散る紫陽花の花びらは雨によく映えて綺麗だったが、この近くに紫陽花はない。そういえば紫陽花見たかったんだよな、などと思い出す。
ふと、その花びらが道標のように散らばっているのを発見した。辿れば何かがありそうな、そんな予感を抱く。普段なら通り過ぎる横道に、普段なら通り過ぎる道標。しかし、気づけば僕はふらふらと辿りはじめていた。
「あれ…もしかしてあなたもこれを辿って…?」
そう言って猫の柄をした傘が振り返り、同年代らしき女が顔を見せる。
「奇遇だね。私もこの花びらに誘われてきたの。他にも誘われた人がいるなんて思わなかった」
彼女はふわりと笑う。傘と雨粒の音がしている。
「まだ続いてるみたいだよ、この道標。それにしても、他に人がいてよかった…」
そういえば途中で誰にも会わなかったな。そこそこ人通りのある道だったと思うが…
「よかったら一緒に行く?話し相手が欲しくて」
こうして僕と彼女は不思議な道標を追うことになった。
ーーー
「それでねー、結局その猫には逃げられちゃって。野良猫ちゃんは気難しいよねぇ。でもね…」
彼女はよく喋る人だった。元々話すのが苦手だった僕は聞き役に徹した。彼女の話はとても面白くて、聞いているだけでワクワクしたし楽しくなった。こんなにも続きが聞きたいと思う話は久々な気がする。
「…あれ。花びらが途切れてる」
彼女がそう言い、足元に目線をやる。花びらは一際多く散らばっていて…いや、ぎっしり敷き詰められていて紫陽花の絨毯みたいだった。しかし道標はもう続いていない。彼女との冒険はこれで終わりのようだ。残念な気持ちが湧き上がる。
「わぁ、すごい!絨毯みたい!」
そう言って彼女は駆け出す。いつの間にか雨は止んでいて、雨上がりの明るさが眩しくて。照らされる絨毯と彼女の髪が綺麗だった。僕も追いかけるようにして駆け出し…足が絨毯に触れた、その瞬間だった。
落ちる。落ちていく。紫陽花の下は穴だった。大量の花びらに混じり、深く深く落ちる。どこまでが自分で、どこからが花びらなのか分からなくなってくる。落ちる。落ちる。落ちているのか止まっているのかも分からない。僕は紫陽花だ。いや違う、僕は…僕は、誰だ?
ーーー
気がつくと、あの帰り道にいた。悪い夢から覚めた気分だったが、そんな記憶も急速に薄れていく。僕は、何事もなかったかのように傘を差して立っていた。
僕には自分の名前と自分の存在がある。
どこかで見たような色の猫が、どこかで見たような紫陽花の花壇に座っている。
いつも通りの景色をぼうっと見て、家に帰る途中だと思い出し、寄り道せずに歩く。寄り道も何も、ここは一本道だが。
傘と雨粒の音がしている。
最近、紫陽花を見ると寂しいような恋しいような不思議な感情を抱く。なんとなく、猫を思い出す。
「奇遇だね。私も今帰りなの。よかったら一緒に行く?話し相手が欲しくて」
そう幼馴染が声をかけてくる。いつもの猫柄の傘だ。
なんだか幸せだなぁ、と思った。
好き嫌い
彼女は好き嫌いが激しい。
「トマト?嫌い!」
「ピーマン?もっと嫌い!」
「野菜嫌い。なんで食べさせようとするの?」
「それより一緒に甘いもの食べましょ。私いい店知ってるの」
彼女は好き嫌いが激しい。
「この服嫌い。なんか微妙」
「この本嫌い。文章読むのは苦手なの」
「このお菓子嫌い。パサパサしてるのよ」
「贈り物のセンスがないわね。私が選び方を教えてあげる、今週の日曜日は暇?」
彼女は好き嫌いが激しい。
「あの女嫌い。ぶりっ子だし、影では悪口ばかりだし。」
「あの女も嫌い。彼女持ちの人にばっか擦り寄って。」
「あの女とか大っ嫌い。外面はいいけど最低なのよ」
「あんなのが好きなんてどうかしてるわ。あなたに釣り合わない。もっといい人を探したらいいわ」
彼女は好き嫌いが激しい。
「また野菜?大嫌い。でも、あなたは料理上手ね。また作ってちょうだい」
「またプレゼント?あら、これが好きだって覚えていてくれたのね。やるじゃない」
「あら、いい人を見つけたの?ふうん。また変な女じゃないでしょうね?」
「えっ…わ、私…?」
彼女は好き嫌いが激しい。
「私、指輪は銀色のほうが好きよ」
「新婚旅行は国内がいいわ、外国は苦手なの」
「式場…ここは好きじゃないわ。こっちはどう?」
「いただきます。…野菜炒めも案外悪くないわね」
妻は好き嫌いが激しい。
「私、あなたのこと大好きよ」
街
とある街がある。ごく普通の街だ。
僕が生まれた街であり、僕が住んでいる街だ。
僕が学校に通い、彼女に出会った街だ。
僕が彼女とともに、笑いあった街だ。
僕が彼女に結婚を申し込み、彼女が手を取ってくれた街だ。
僕が彼女とともに生きる街だ。
とある街がある。ごく普通の街だ。
しかし僕にとって、世界一特別な街だ。
これから彼女とお腹の子と、3人で生きる街だ。
とある街がある。ごく普通の街だ。
僕の大好きな街だ。
やりたいこと
死ぬまでにやりたい100のこと、なんていうのをよく聞く。100とまではいかずとも、死ぬまでにやりたいことなんていう話題はよくある。
そんなよくある話題に、毎回ついていけないのが私だった。
やりたいことがないわけじゃないけど、死ぬまでに絶対やりたい!とか、そんなに熱意があるわけじゃない。思えば昔から、結構冷めた気持ちで生きていたと思う。
「うーん、やりたいことが多すぎるなぁ…あと1週間で全部いけるかな?」
そう呟いたのは、一緒にベンチに座っている親友の奈々である。「やりたいことリスト」と睨み合いながら、1週間の計画を練っているようだ。やりたいことが多いのは羨ましいが、大変だなぁとも思う。
「流石に全部は無理じゃないかな…」
「うぅ、やっぱ優先順位考えないとダメかー」
「歩きだから移動時間もかかるし、お店系はもう無理かもしれないし。だいぶ絞られてくるんじゃない」
「できないことが増えちゃったなぁ…残念」
「仕方ないよ、突然だったし…」
そう、こんなことになったのは本当に突然だった。あと1週間で世界が終わると口々に言う政治家たち。科学者たち。証拠の数々。どうせ終わるのならと、仕事を放り出して好き勝手しだす大人たち。高校に行く必要もなくなった私達2人は、奈々のやりたいことを一緒にやっていくことにしたのだ。
「…よし、だいたい計画は立ったかな。だいぶ減っちゃったけど、今できる範囲で楽しもう!えいえいおー!」
「おー」
「まずは憧れてた可愛い服を一緒に着たいな。気になってたお店があるの!」
「買えるの?」
「世界が終わるっていうのにお金取ってもしょうがないでしょ。きっと無料で手に入る」
「そんな雑な…まぁいいか」
ーーー
それからの1週間は本当に楽しかった。
可愛い服を大量に着てファッションショーじみたことをした。ペットショップで動物を逃がして戯れた。止まった電車と線路の上で記念撮影をした。1週間でできるやりたいことは、順調に達成されていった。かつてないワクワクの連続だった。
最後の1日、私達は「高校の屋上で一緒に朝日を見る」というミッションを達成した。本当に今日世界が終わるらしく、空高い場所で小惑星がこちらに向かってきていた。隕石の欠片が流れ星のようで、人生最高の美しい朝日だ。1週間ぶりの故郷はゴミだらけで、なんとも言えない気持ちだった。
「綺麗だね」
「そうだね」
「終わっちゃうのか、全部…」
「…そうだね」
奈々は突然、私の目をしっかり見て言った。
「この1週間、一緒に来てくれてありがとう。本当に楽しかった。私のやりたいことが全部叶った気持ちだよ」
「ううん、私は逆に何もやることがなかったから…こちらこそありがとう」
「…実は、ね。あと1個だけ、やりたいことが残ってるの。聞いてくれる?」
「うん、なに?」
奈々は少し下を向き、それからまた私をしっかり見据えて、言った。
「ずっと前から大好きでした。この一週間でもっともっと大好きになりました。私と付き合ってください!」
「私が1番やりたかったこと…言いたかったことは、これなの。」奈々の不安げな声。
流れ星の欠片が地面に転がり始め、私の心には何かが芽生えた。
「私も、言いたいことができちゃった」
人生初、おそらく人生最後の、死ぬまでにやりたいこと。小惑星が近づき、流れ星が増える。
「私も奈々のこと大好きになっちゃった。付き合ってください」
私達は抱きしめあって笑った。やりたいことが達成されて、最愛の人とも結ばれて、もう思い残すことはない。幸せの絶頂にあった私達2人は、小惑星の岩と炎の中で永遠に結ばれた。
あの屋上も、あの街も、今となっては宇宙の塵である。