彼女と目が合ったその一瞬、僕の胸はこれまで生きてきた十五年間で一番と思うほどに高鳴った。俗に言う〝ひとめぼれ〟と言うやつだ。
彼女はいつも放課後の美術室でひとり微笑んでいる。恥ずかしがり屋なのか声を聞いたことは無いけれど、そんなところもいじらしくて可愛い。
彼女と少しでも一緒の時を過ごしたくて、絵心も興味も無いくせに美術部に入った。彼女に好かれる男になりたくて皆が嫌がる掃除当番も率先して行った。ささやかでもできる限りの努力をしてきた。そんな努力をする度に、彼女はいつもと変わらない笑みで僕を迎え入れてくれるのだ。
無口な彼女の分、僕は色んな出来事を語った。体育の後の六限古典はみんなへとへとで、ほとんどお昼寝時間になってしまうこと。購買の限定メロンパンを賭けたババ抜きで五連勝していること。うっかり寝間着のまま登校してしまったこと。体育倉庫で野良猫が子猫を産んでいたこと。
どんな話題だったとしても彼女は笑って聞いてくれた。それが何とも心地よくて、言葉を交わせなくとも、それだけで僕は幸せだった。
でも、そんな幸せな日々は実に呆気なく終わりを迎えた。彼女と出会って一年とちょっと、季節外れの雪が降った春の午後、彼女は突然姿を消した。
ショックでその日は部活も休んで、家でひとり苦手なブラックコーヒーを一気飲みして布団に潜った。コーヒーのせいで熟睡は叶わなかったし、酷い悪夢にうなされた。散々だ。しかしながら一度眠れば多少は落ち着くもので、次の日からは彼女の行方を探り始めた。あんなに優しく微笑んでくれた彼女の事だから、前触れもなくどこかに行ってしまうわけが無い。
そうと決まればまずは聞き込み調査だろうか。ベストなのは彼女の友達だけども……考えてみれば、彼女の事について殆ど知らないことに気づいた。交友関係はおろか先輩なのか同級生なのかも分からない。
いや、待て。彼女は制服を着ていなかった。夏でも冬でも青いワンピースを着て、腰ほどの長さの黒髪を風になびかせていた。なら、彼女は何者だ? ふと思い出すのはクラスの女子たちの与太話——何年か前の夏休みに屋上から飛び降りた少女の話。胸が早鐘を打つ。冷たい汗が一筋、背中に伝うのを感じる。まさか、僕が今まで話していた、あの子は。
ガラガラと戸が開く音で我に返る。いつの間にか美術室の前に来ていたらしい。戸を開いた主でありボサボサ頭で背の高い男子生徒、三年の長江先輩がこちらを見下ろしている。
「あ、小林。来た」
「えと、どうも……来ました」
「体調、大丈夫?」
「昨日はすいませんでした。もう大丈夫です」
「ん」
少し横に避け俺を招き入れる長江先輩。独特のテンポを持つ先輩が、僕はどうにも苦手だ。
美術室に入れば部員たちが口々に話しかけてくる。挨拶と一言二言の雑談の後、美術部に入部した頃からの仲の橋本の隣に腰掛ける。
「橋本、よっす」
「よっす、小林。昨日はびっくりしたぞ。来て早々いきなりぶっ倒れてそのままご帰宅だもんな」
「びっくりさせて悪かったよ……」
「ははは! あんなに寒きゃぶっ倒れてもおかしくないって。ピンピンしてるなら良し!」
からからと笑う橋本。本当に見ているだけで元気が出る奴だ。
そうだ、彼女はいつも美術室に居た。同じ美術部のこいつなら知ってるかもしれない。一縷の望みをかけて、僕は口を開いた。
「僕が……いつも話してた女の子の事、何か知らないか?」
「女の子……? いや知らんが」
「どんな事でもいいんだよ。ほら、青色のワンピースを着てた笑顔が可愛い子。いつも美術室に居ただろ」
「おお……あー、なるほど。そういうこと」
神妙な顔で頷く橋本。どうやら何かしら心当たりがありそうだ。高鳴る鼓動を悟られないよう、ゆっくりと深呼吸する。
「心当たりあるのか?」
「あるも何も……あれだろ、長江先輩の描いたやつだろ」
「え、絵? 長江……先輩の?」
「お前めちゃくちゃ気に入ってたもんな。時間があれば話しかけてたし。それもめっちゃ上機嫌で」
「そんな……」
「いや、でも分かるわー長江先輩の絵、リアルというか存在感あるっていうか。なんて言えばいいのか分からんけど、なんか、良いよな」
正直なところ橋本の言っている意味が理解できなかった。彼女が絵だって? あんなに優しく微笑んで、僕の話を何でも聞いてくれる彼女が絵だなんて。
だけど、考えれば考えるほどその事実は信憑性を増していく。体温が下がるような感覚がして、思わずため息を漏らしてしまった。
「小林」
「あ……な、何ですか」
「昨日配った美術展の案内、これ、小林のぶん」
丁度いいのか悪いのか、彼女の創造主たる長江先輩が話しかけてくる。差し出された案内用紙を受け取りながら、僕は先輩に問いかけた。
「……前に飾ってた女の子の絵。どうしたんですか」
「ああ、『空色の乙女』なら一旦家に持ち帰った。ちょっと日焼け、しちゃってたから」
「そう、ですか」
「ちょっと直したら、また、持ってくるね。小林、好きでしょ?」
「あ、いえ、そこまでしなくても」
「ううん、絵は見てくれる人がいた方が、嬉しいと思う、から。ありがとう。あの子の事、好きになってくれて」
それだけ言うと長江先輩は去っていった。五分にも満たない会話。それだけだったけども、語る先輩の長い前髪に隠れた表情も、その声色もとても穏やかで、〝彼女〟に対する愛情を感じた。それがちょっぴり妬けると共に、初めて彼に尊敬の念を抱いた。
「……僕も人物画、描いてみようかな」
「お! かわい子ちゃんを期待してるぜ」
「まだ女の子を描くとは言ってないって」
橋本と軽口を叩いていれば聞こえてくる部長の号令。今日もまた部活が始まる。
スケッチブックを開き、まだ誰も居ない真っ白なページに記憶の中の彼女を描いてみる。上達したといえどまだまだ拙い線で、本物には似ても似つかない。そんな己の絵心に苦笑しながらも、心臓は出会ったあの日と同じくらいにどくんどくんと脈打っていた。
【胸が高鳴る】
「不条理とフジッリって似てるよね」
「いや突然なに?」
春も間近の三月初旬、ボランティア部の活動として公園の草むしりを行っている最中、友人の石崎はぽつりと呟いた。黙々と目の前の草をぷちぷち千切っていたのがいきなり妙な事を言い出したので、つい俺も反応してしまった。高校に入って一年以上友人をやってきているが、こういう所は全くもって慣れない。
「語感もそうだけど、あの螺旋の感じが……」
「そもそもフジッリがわからん」
「パスタの仲間だったような? マカロニと似た感じの」
こんな感じ、と両手をドリルのようにゆるく絡める石崎にぬるい視線を送る。フジッリが何かは何となくは理解した。だが不条理との類似点は全くもって分からない。
「ソースの絡み具合が絶妙で俺フジッリすき」
本当になに言ってるんだこいつ。もう不条理関係なくない?
「なあ結局フジッリと不条理って何が似てる――」
「こら! 木下くん真面目に草むしりしないとダメ!」
顧問の先生から怒られた。しかも俺だけ。石崎はフジッリ話に飽きたのかまた黙々と草むしりを再開している。
不条理とフジッリの関係は分からないし、俺だけ注意されるし……ああもう! 不条理だ!
【不条理】
横断歩道で困っていたおばあさんを助けたら、お礼に〝魔法の目薬〟を貰った。両目に一滴ずつ垂らすだけで、何でも好きなものが見られるらしい。
……いやいや、どう考えても怪しすぎる。あんな笑顔が素敵で気の良さそうな人を疑いたくは無いけれど、危ないクスリとかじゃない、よね?
机上に置いた薄青色の小瓶を見つめ、うんうんと考える。よし、決めた。一回だけ使ってみよう。少しでも痛くなったり変な気分になったら、直ぐに洗い流して病院に行けば良い。何事も経験だ。
実際、目薬の話を聞いて少なからず胸が高鳴っている。非現実的だとしても〝なんでも好きなものが見られる〟と言われたら期待してしまうのは仕方がないだろう。二十そこらの青年の欲を舐めないでほしい。自慢じゃないが見たいものなんて山ほどある。
思い立ったらすぐ行動だ。小瓶の蓋を外し首を傾け、天井を真っ直ぐ見つめる。先端から液体を垂らせば、右目にスッとした清涼感。今のところ痛みは来ないようだ。続けて左目に一滴垂らし、目頭を抑えて目を閉じる。依然痛みは無く、心地よい冷たさがあるだけだ。少なくとも劇薬では無いようでホッと息をついた。
さて、何が見られるだろうか。いつか行きたい旅先の風景? 好みの女優の秘蔵の姿? 暗闇の中であれやこれやと考える。あ、眼科休診日って水曜だったっけ。そんな今更どうでもいい事が頭を過ぎった辺りで徐に瞼を開けた。さあ、目の前に広がるのは――
「…………え」
そこは変わらない自室の光景。乱雑に置かれた雑誌にゴミ箱から零れたティッシュ玉、細かな家具の配置まで目を閉じる前と全く同じだ。一つだけ異なっているのは、そこに一人の女の子がいた事だ。
机を挟んで向かい側、肩ほどまで伸びた黒髪にブラウンのカチューシャを付けた少女が、俺に向かって微笑んでいる。見覚えのあるその姿に、思わず目頭が熱くなるのを感じた。目から雫が零れ落ちようとするその一瞬、少女がその小さな口を開いて何か言った。
「泣かないで――くん。強い子でしょ?」
頬を涙が伝い、一度瞬きをすると少女の姿は消えていた。傍らのティッシュでそれを拭いながら、再び目の前から消えてしまった彼女の事を思った。
小さい頃、二軒隣に住んでいたみどりお姉ちゃん。どんな字を書くかは分からない。分かる前に、みどりお姉ちゃんは俺の前からいなくなってしまったのだから。
俺より四つか五つ年上だったお姉ちゃんは俺の事を弟のように可愛がってくれた。当時は気も弱く泣き虫だった俺を気にかけてくれて、そして泣き出す度に頭を撫でて言ったのだ――強い子だから泣かないで、と。そうやって慰めて貰えるのが嬉しくて、でも少し心が傷んで。一緒に家路を手を繋いで帰る度に、みどりお姉ちゃんが言う通り〝の強い子〟になりたいと考えていた。強くなれば、今度は俺がみどりお姉ちゃんが辛い時慰められると思っていたから。
でもそれは叶わなかった。俺が泣き虫を克服する前に、強い子になる前に、みどりお姉ちゃんはいなくなってしまった。いつものように手を繋いで登校していた時。朝にしては眩しすぎる光と少しの衝撃の後、真っ白い天井と消毒液の匂いに目を覚ませば、みどりお姉ちゃんはいなくなっていた。詳しい事は覚えていないが両親は「不幸な事故だった」と言っていたので、きっとそういう事なのだろう。それ以来みどりお姉ちゃんの家族と会うことも無くなったし、どれだけ泣いても、もうみどりお姉ちゃんは俺の頭を撫でてくれなかった。
泣いて、泣いて、何十何百も泣いたあと俺は決心した。お姉ちゃんがいなくても大丈夫になろう。みどりお姉ちゃんみたいに誰かを助けられる人になろうと。その決心は俺の信念になり、今日まで続いてきた。おばあさんを助けたのもその信念の一環だ。誰かを助けられる〝強い子〟でありたかったから。
ああ、でも、やっぱり駄目だなあ。お姉ちゃんの顔を見ただけで泣いてしまうなんて、まだまだ俺は泣き虫のままだ。
机に置きっぱなしの目薬をハンカチで包み、そっと引き出しの奥に入れる。もっともっと誰かを助けて、もっともっと〝強い子〟になれるまでこの目薬は取っておこう。そしていつか、その日が来たならば、今度は笑って貴女に向き合いたい。
新たな決心を胸に引き出しを閉めれば、視界の端で誰かが笑った気がした。
【泣かないよ】
どおぉん、と何かが落ちたような音に目が覚めた。何事かと寝起きのまとまらない頭で考えていれば、少し遅れて光を放つ窓の外と再びの轟音。なるほど、雷が来ていたのか。
寝る前にぼーっと眺めていた天気予報では「明日は小春日和で暖かい」と言っていた様な気がするが、この様子ではどうだろうか。合間に聞こえる雨音に耳を傾けながら何とはなしに考える。まあいいか、どうせ休日は家に引きこもるのだから。窓の向こうの空模様よりも、まず気にすべきは胸元で震える茶色毛玉だ。
「大丈夫、みーちゃん。怖くない怖くない……」
雷が落ちる度に小さく「ひゃあ」と鳴き、擦りついてくる猫の背を何度も何度も優しく撫でる。みーちゃんはとても臆病で怖がりだ。自分のしっぽにびっくりするのは日常茶飯事。ベランダにカラスや鳩がやってくれば一目散に逃げていくし、私がくしゃみしただけでしっぽをタヌキみたいに膨らませていた。
それでいてシャイなのであまり鳴かない。決まってびっくりしたり、今みたいに怖さに耐えられなくなった時に限って小さく自己表現をするのだ。
正直言えば私も雷は得意じゃない。人間は生まれながらに大きな音に恐怖を抱くものらしいが、例には漏れず私も小さい頃はみーちゃんみたいにお母さんの布団に潜り込んで、一緒に寝てもらっていたものだ。花火大会も、見るなら遠くからが良い。
今落ち着いていられるのは、たぶん、みーちゃんのおかげ。怖がりで弱い自分をみーちゃん越しに撫でているのだ。成長して、身体もプライドも大きくなった私の代わりに泣いてくれるみーちゃんが、とても愛しいから。
「……大丈夫、大丈夫だよ」
優しく、口ずさむようにみーちゃんの背を撫でれば、少し心が軽くなった気がした。
【怖がり】