横断歩道で困っていたおばあさんを助けたら、お礼に〝魔法の目薬〟を貰った。両目に一滴ずつ垂らすだけで、何でも好きなものが見られるらしい。
……いやいや、どう考えても怪しすぎる。あんな笑顔が素敵で気の良さそうな人を疑いたくは無いけれど、危ないクスリとかじゃない、よね?
机上に置いた薄青色の小瓶を見つめ、うんうんと考える。よし、決めた。一回だけ使ってみよう。少しでも痛くなったり変な気分になったら、直ぐに洗い流して病院に行けば良い。何事も経験だ。
実際、目薬の話を聞いて少なからず胸が高鳴っている。非現実的だとしても〝なんでも好きなものが見られる〟と言われたら期待してしまうのは仕方がないだろう。二十そこらの青年の欲を舐めないでほしい。自慢じゃないが見たいものなんて山ほどある。
思い立ったらすぐ行動だ。小瓶の蓋を外し首を傾け、天井を真っ直ぐ見つめる。先端から液体を垂らせば、右目にスッとした清涼感。今のところ痛みは来ないようだ。続けて左目に一滴垂らし、目頭を抑えて目を閉じる。依然痛みは無く、心地よい冷たさがあるだけだ。少なくとも劇薬では無いようでホッと息をついた。
さて、何が見られるだろうか。いつか行きたい旅先の風景? 好みの女優の秘蔵の姿? 暗闇の中であれやこれやと考える。あ、眼科休診日って水曜だったっけ。そんな今更どうでもいい事が頭を過ぎった辺りで徐に瞼を開けた。さあ、目の前に広がるのは――
「…………え」
そこは変わらない自室の光景。乱雑に置かれた雑誌にゴミ箱から零れたティッシュ玉、細かな家具の配置まで目を閉じる前と全く同じだ。一つだけ異なっているのは、そこに一人の女の子がいた事だ。
机を挟んで向かい側、肩ほどまで伸びた黒髪にブラウンのカチューシャを付けた少女が、俺に向かって微笑んでいる。見覚えのあるその姿に、思わず目頭が熱くなるのを感じた。目から雫が零れ落ちようとするその一瞬、少女がその小さな口を開いて何か言った。
「泣かないで――くん。強い子でしょ?」
頬を涙が伝い、一度瞬きをすると少女の姿は消えていた。傍らのティッシュでそれを拭いながら、再び目の前から消えてしまった彼女の事を思った。
小さい頃、二軒隣に住んでいたみどりお姉ちゃん。どんな字を書くかは分からない。分かる前に、みどりお姉ちゃんは俺の前からいなくなってしまったのだから。
俺より四つか五つ年上だったお姉ちゃんは俺の事を弟のように可愛がってくれた。当時は気も弱く泣き虫だった俺を気にかけてくれて、そして泣き出す度に頭を撫でて言ったのだ――強い子だから泣かないで、と。そうやって慰めて貰えるのが嬉しくて、でも少し心が傷んで。一緒に家路を手を繋いで帰る度に、みどりお姉ちゃんが言う通り〝の強い子〟になりたいと考えていた。強くなれば、今度は俺がみどりお姉ちゃんが辛い時慰められると思っていたから。
でもそれは叶わなかった。俺が泣き虫を克服する前に、強い子になる前に、みどりお姉ちゃんはいなくなってしまった。いつものように手を繋いで登校していた時。朝にしては眩しすぎる光と少しの衝撃の後、真っ白い天井と消毒液の匂いに目を覚ませば、みどりお姉ちゃんはいなくなっていた。詳しい事は覚えていないが両親は「不幸な事故だった」と言っていたので、きっとそういう事なのだろう。それ以来みどりお姉ちゃんの家族と会うことも無くなったし、どれだけ泣いても、もうみどりお姉ちゃんは俺の頭を撫でてくれなかった。
泣いて、泣いて、何十何百も泣いたあと俺は決心した。お姉ちゃんがいなくても大丈夫になろう。みどりお姉ちゃんみたいに誰かを助けられる人になろうと。その決心は俺の信念になり、今日まで続いてきた。おばあさんを助けたのもその信念の一環だ。誰かを助けられる〝強い子〟でありたかったから。
ああ、でも、やっぱり駄目だなあ。お姉ちゃんの顔を見ただけで泣いてしまうなんて、まだまだ俺は泣き虫のままだ。
机に置きっぱなしの目薬をハンカチで包み、そっと引き出しの奥に入れる。もっともっと誰かを助けて、もっともっと〝強い子〟になれるまでこの目薬は取っておこう。そしていつか、その日が来たならば、今度は笑って貴女に向き合いたい。
新たな決心を胸に引き出しを閉めれば、視界の端で誰かが笑った気がした。
【泣かないよ】
3/18/2023, 6:00:29 AM