ジェーン・ドゥ

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5/12/2026, 12:31:51 PM

子供のままで


穏やかな手のひらが好きでした。
私のよりもひと回り以上大きい手のひらが包み込むように手を握ってくれるのが好きでした。
ほんの少しの努力でも優しく頭を撫でて褒めてくれるのが好きでした。
小さな成功を自分のことのように喜んで抱きしめてくれるのが好きでした。
あなたたちのことは、今でも好きです。

怪我をすると慌てて駆け寄ってきてくれるのが好きでした。
誰かに傷つけられると私以上に怒ってくれるのがうれしかったです。
失敗をして落ち込むと好物が食卓に並ぶのに気づいていました。
いつでも与えられた小さな優しさが励みになりました。
あなたたちの言葉は、今でも力になります。

歳を重ねる度に求められる基準が高くなっていくのが嫌でした。
成果がなければ過程など評価されないことを知りました。
無条件で与えられていた好意は若さの上にありました。
ただ生きているだけで許されるのは子供だけだと気づきました。
あなたたちだけは、今でも愛してくれるけれど。

子供のままでいられたなら、きっと幸せだったでしょう。
でも、そうはいかないのです。
残念なことに、とてもとても残念なことに。
ああ、今はただ、あの時が恋しい。

5/11/2026, 1:19:27 PM

愛を叫ぶ

僕たちは、愛なしでは生きられない。
産まれたばかりの小さなてのひらは、それでも確かに僕の手を掴んだ。柔らかで、あたたかな命の鼓動。未だ世界の色を知らない無垢ないきもの。
鹿は生まれた時から僅か数十分で自らの力だけで立ち上がるのだと云う。それに比べて人間の赤子のか弱いことよ。両の足で立ち上がるのにはおよそ1年かかる。ましてや自分の力だけで生きてゆくにはその10倍以上の歳月が必要だ。
誰かの助力なしには生きられない命。だからこそ、彼らは泣くのだ。自分を愛してくれる誰かに見つけてもらうために。力の限り叫ぶのだろう。
自分はここにいるのだと。
どうかどうか愛してくれと。

5/10/2026, 3:18:47 PM

モンシロチョウ


白地の絹に黒糸で刺繍を施した。真っ白なそのドレスの裏側に、小さなプリムラの花弁を。飾られている状態では見えないそれは、ドレスの裾が広がるその瞬間だけ、光に透かされてほんのわずかその姿を現す。きっと誰も気づかない。それで良かった。私だけが知っていれば良い。

彼女は蝶のような人だった。軽やかで、光の中で美しく羽ばたく人。スボンは窮屈で嫌いなの、と言って滅多に着ることはなかった。彼女が動く度に、繊細なフレアのスカートがひらひらと舞うのを見るのが好きだった。
親友、なんて称されて、彼女の隣にいた。醜い蛾の私が彼女の隣でだけは特別になれた気がした。服を作り始めたのは彼女のためだった。彼女の美しさを引き立てるには、既存の服では足りない気がして。試行錯誤の末に創り出した店は、僅かながら評価され出した。
__ウェディングドレスは貴女のが良いの。
頬を染めてそういう彼女が愛おしくて、そして同時にどうしようもないほどに憎かった。気持ちを告げる勇気すらなかったくせに、気付かず笑う彼女を恨んだ。恋の一言すら、彼女に捧げられなかった臆病者。
ドレスなんて作ったことは無かった。それでも彼女の望むことだからと、その他の仕事も、生活も、全てを放って没頭した。私の作った花嫁衣装に袖を通してバージンロードを歩く彼女を想像すると、苦にはならなかった。

蝶のようにうつくしい人。ねぇ、貴女はきっと気づかない。衣装に象られた私の想いを。それでもいいの。それがいいの。純白の衣装に影を落とす、黒い斑点。
貴女のための衣装はこれで最後。だからどうか、どうか許して。貴女に捧げるプリムラの花。私の小さな恋を。

4/5/2026, 10:46:12 AM

星空の下で

家を買った。山の上、小さな小さな家を。人気もなく、虫の鳴き声と木々のさざめきだけが満ちる静かな場所だった。町あかりから遠く離れたこの家では、星がよく見えた。晴れた日、窓から空を覗くのが男の習慣だった。
星空、高く遠く。手を伸ばしたところで届きはしない。瞬く光だけが目を眩ませる。
「人は死んだら星になるのよ」
妻の口癖だった。四角く切り取られた白い部屋、横たわる姿ばかりが記憶に残っている。ゆっくりと、しかし止まることなく死は妻に歩み寄っていた。壁に取り付けられたひとつの窓だけが、妻が見ることのできる世界だった。星空を見つめるのは、元は妻の習慣だった。死の間際まで、妻は穏やかだった。男の方が余程怯え震えていた。
「あなた、私は空にいますから。あなたをずっと見ていますから」
今際の言葉だった。それ以来男は、空を眺める。
星空、高く遠く。煌々と輝くそのひとつに、妻がいる。
静かな山の上、今日も探し続けている。ただひたすらに、見つめ続けている。

3/31/2026, 2:09:20 PM

幸せに

薄紅色の花弁が飛び交う。降り注ぐ祝福の声を全身に浴びながらそのふたりは笑っていた。純白のドレスは彼女の白い肌によく似合っていて、その眩しさに目が痛くなるほどだった。
ねぇ、私の愛しい人。きっときっと、幸せなのね。
ぱちり、と音がなった気がした。目が合った。満ち足りた瞳が細まり、柔らかな笑みを浮かべた。あたたかな陽射しが降り注ぐ。あんまりにも綺麗で、涙が溢れた。
どうかどうか、涙のわけに気づかないままでいて。

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