永遠なんて、ないけれど
人間って面白い
肘をついた腕で頬を支えると自然と首を傾げる形で上目遣いになった。
途端に目の前の男か顔中を真っ赤に染めて面白いほどに狼狽し始める。そのままアタフタと顔を逸らしては上を見上げて決死の表情でこちらの顔を見返してくる。
どうしたの?
そう問えばあまりにも可愛すぎて、なんて返してくる言葉になんだか面白くもないのにおかしくなった。
目の前のこの人は本当に素直で、良くも悪くも何もかも曝け出していてここまでだと生きづらいとか考えた事がないのかもしれない。その純粋さと愚かさにほんの少しの羨望を抱きながら肩肘をついた手を目の前の手に伸ばした。
ヒェ…と叫んで真っ赤に染まった顔が逆に白くなる。
ね?と笑いかけながら手を取るとそのまま握り返した。
白黒させていた目の前の顔がごくりと音を立てて生唾を飲む音が聞こえる。
そんなにも必死にならなくてもいいのに。
面白い程に顕著な変化を見せる目の前の男の震える手を握ると笑いかける。
『ねぇ、幸せ?』
私の顔、ちゃんと笑えているかしら。
『もう、死んじゃいそうなくらい!』
そこまで?
思わず笑ってしまったけれど。こちらの笑い声に彼は安堵したみたい。ぎゅっと握り返してくる汗ばんだ手をこちらも握り返しながら目を伏せた。
人は辛い時だけじゃなくて
幸せな時も死にたくなるんだって。
永遠になりたい、そう思うのだろうか。
終わる事で。
自分の笑顔がどんなふうになっているかわからないけど、それでも私は笑いかける。
笑いかける方法しかわからなかった。
『ねぇ、じゃあ死んじゃおうか』
ねぇ、私はちゃんと笑えている?
貴方の顔を見る事が出来ないの。
涙の理由
運命というのは扉一つ挟むだけでこんなにも変わるのだろうかと、どこか悟った気持ちで指先の指し示す先を見つめた。
もう残りの時間もないだろう。
本能的にわかる命の限界をどこか他人事のように眺めながら見えなくなっていく目を凝らして見えないはずの扉の先を見ようとした。
いつの間にか夢を見ていた。
目を閉じる事で見た事がない夢を、終わりを迎える事で見ることになると誰が想像しただろう。
生きるという事は与えられたコマンドをこなす事で、
当たり前のことで、快楽も苦痛もかけ離れた場所にあるものだった。死ぬことも同じ。そんな程度だったのに。
面白かった。
同じような境遇なのに、怒って、笑って、照れて。
くるくる回る姿に自分を重ねた。
同じようで違う私と貴方。
田舎に憧れてすり減るネズミと都会に憧れて何も知らないネズミ。違うようで同じ私と貴方。
面白くて面白くて、貴方とならと夢を見た。
そう、夢を見た。
同じように笑う自分を。
田舎のネズミも都会のネズミもネズミでしかなったのに。田舎のネズミに憧れて都会から逃げたかったネズミが、都会のネズミもいいかな、と思えるくらいに。
二人一緒なら何処ででもいいかな、なんて。
初めて見た夢が今、終わりを迎える。
ここにいるよ。
ずっと間違えていた世界のままでいい。
ここにいるよ。
視界が霞んで目が見えない。
見えない先の扉に貴方がいるのに届かない。
夢を見た。
夢を見てしまったの。
見えない目から溢れたなにかはどこか塩辛い味がした。
『現場到着しました。こちら通報がありました裏路地に少女と思われる身元不明の遺体が…』
もしも世界が終わるなら
定められた滅びを迎えるなら、何も知らないままの方がいい。政府はそう決めたらしい。
あと数時間後に堕ちる隕石で眼前に広がる世界全てが地獄になると言うのに恐ろしい程に世界は変わらないままだった。明日が変わらず訪れると疑いもしないまなこで見る世界と、終わりを知る眼鏡をかけた目で見る世界は同じものはずなのに。
政府の高官と一部の民間人は既にシェルターに逃げ込んだという。
なんて理不尽で、なんて愚かなのかと嘆いても結果はなにも変わらない。最善なのだ、滅びの決まった世界では。
耳元でお湯が沸いた事を知らせるベルが鳴る。
いつものようにお湯を注いで同じコーヒーを作る。
少し焦げたパンと半熟の卵が朝食のルーティンだった。
一つだけいつもと変わっているのはカップを持つ手が震えていることだろうか。
カーテンを開けて窓の外を眺めると
いつもと変わらない雲ひとつ見えない青空が広がる。
夢の中のようだ。
夢を見ているようだ。
夢であればいいのにと思う。
震えが止まらぬ滅びを待つ手が空のカップを洗う頃、
目の前に何が広がるのかを知りながら
夢も現実も拒絶するように男はそっと、
窓の光から逃げ出した。
みたいな手塚治虫作品のタイトルが思い出せない
ひとりきり
空を割くような稲光が夜の闇を引き裂いた。
夏の終わりを告げるように轟く雷鳴は豪雨を引き連れて生暖かく熱を持った大地を潤していく。
始まりはいつも雨。
終わりもまたいつも雨。
今宵の鳴り響く轟音が終わりの鐘を告げ終わる頃に
暑く厳しい夏が終わり、徐々に肌寒い風と共に次の季節へとバトンを渡すのだろう。
窓辺に佇んでベランダに立つと横殴りの雨が頭から足先迄を容赦なく濡らした。
雨と共に風と共に嵐と共にこの胸に吹き荒ぶ荒れ狂う悲しみを連れて行け。
見渡す限り外には誰も居ない。
誰も彼もが寝静まる、静寂の中稲妻だけが支配する世界でひとりきりで立つのは私だけ。
全てを流した明日には
遠かった雨雲が晴れやかな秋晴れと共に新しい私を連れてくる
八月三十一日午後五時
8月31日は嫌いだ。
夏休みの宿題を慌てて解き出した時に呆れるようなため息が聞こえた。
わざとらしく『だから言ったのに』とうんざりしたように言う声に黙って耐える。
せっかく始めた宿題の手が止まると言うのに。
やり始めた途端に狙ったように嫌味を言いに来るその歪んだ性格をなんとかしたらどうだろうか。
やる気スイッチを無理やりOFFにさせに来たつもりなのか、我が親ながら本当に人を嫌な気持ちにさせる天才だと思う。
他人にいい顔をしてはたまるフラストレーションを我が子にしか向けられないその脆弱な人間性にこちらこそ呆れ果てるばかりだ。
何がしたいわけ?
お呼びじゃ無いんだけど、と言外に告げるつもりで呟くと、思っていたより低く忌々しげに言葉が響く。
なによ!心配してあげたのに!
くわっと目を開いたその女は、返された言葉の棘にひりついた大声をあげるとドスドスと足音と立てて部屋から出ていった。
勉強は好きじゃない。
でもそれ以上に『それを言い訳にして』寄ってくる羽虫が好きじゃない。
与えるのではなく関心を貰いたくて構って欲しい、そんな自分を客観的に認識する能力に著しく劣るくせに、他人の世話が何か出来ると思っている。
でも実際は能力的に何も出来ない現実しか待っておらずに現実と向き合える程のプライドもない。
結局何が出来るかと言えばできる事は嫌味かマウントしか残らないのだ。
やれと言う割に邪魔をして、邪魔だと突き放されたら不貞腐れる。自称善意の押し売りがなんの役にも立たないどころか自分の孤独を満たしてもらいたいと言う途轍もなく手前勝手な欲望を目の前の子供にのみ欲している。
『世話をしてあげている』と自ら目を逸らしては余計に干渉しては拒絶されては産んであげたのにと逆恨むのだ。
夏休みはそんな現実から逃げられる時間だった。
勉強しろと言う割に、その勉強には興味を示さず、点数を取っても貶して貶める場所探し。
私はもっと勉強できたのにと叱る事が教育だと思い込み中3の英語すらままならない。言い訳ばかりで支配的なのによそ様相手には借りた猫。ネタがなければ我が子の恥ずかしいエピソード自慢で笑いを取って、こちらだけの自尊心ばかりが削られる。
夏休みはそんなことばかりの現実を唯一見なくていい時間だった。
イライラとしながら目の前の宿題にシャーペンを投げつけては教科書を机から叩き落とす。こうやって癇癪を起こせばまたウチの子は…とよそ様相手に嬉々として話すだろう。
どうでもいい。何もかもが。
夢が覚める。明日が来る。
目に滲む涙のまま目の前のカレンダーに八つ当たれば、9月の顔が無情にも顔を出した。