懐かしく思うこと
まだ昔のことを心穏やかには振り返れない。
毎日忙しくて頭はいっぱいだし、ただ懐かしく思うには、私には時間が足りないみたいだ。
たまに思い返そうとしても、楽しかったことさえ切なくて胸が痛んで、幼かった自分が気恥ずかしくて目を閉じてしまいたくなる。
だからまだいいかな。
いつかゴールに近づいたなら、その時は優しい気持ちで思い出したい。
#73
もう一つの物語
昔、高校の先生が、私はあの飛行機に乗るはずだったんだよ、と言った。先生の穏やかな口調に対して一瞬息を止めてしまった事を、私はよく覚えている。
あの高校に合格しなかったら、あの会社に入らなかったら、あの人に出会えなかったら。
いくつかの大きなif。そして日々の小さなifでは、あの電車に乗らなかったら、等々。
そこには必ずもう一つの可能性があって、その一つの選択で人生が変わっていたかもしれない。普段は意識しないその紙一重の重み、生きている幸運を、痛ましい事故のニュースなど聞くと先生の言葉を思い出し考えさせられる。
あの日、あの場所に私がいたら、もしくはいなかったら?
今ごろどんな物語が始まっていたのだろう。
#72
暗がりの中で
最も暗い闇のなかにいるときこそ、光を見い出すことに集中しなければならない。
アリストテレス
すごくしんどかった時に、一日中聴いていたある歌手について、「この人の歌は暗いんじゃなくて、闇の中から光を求めてるように思う」というファンのコメントを見つけ、それがとても私の気持ちにぴたりと合っていました。ずっと心にかかっていたところ、この言葉に出会いました。
あきらめてないからこそ苦しい、それでいいから。と言ってもらった気がしました。
#71
紅茶の香り
一区切りついたら、
今日はアールグレイを淹れよう。
丁寧にはできないから、
カップにティーパックを放り込み、
熱いお湯を注げば、
ふわりと華やかな香りが広がっていく。
大きく深呼吸して、胸いっぱいになるくらい、
その香りを吸い込んだ。
子どもの頃はこの強い香りが苦手だったけど、
今はこれでないと物足りなくなってしまった。
少し甘いものを摘んだりもする、
午後の密かな楽しみ。
そして一息ついたら、もう一仕事。
もうひと頑張り。
#70
愛言葉
「ただいま、帰ったよ。ドアを開けて」
「合い言葉は!?」
「合い言葉って何? 早く開けてよ〜」
「この前決めた合い言葉を言って!」
この前決めた……? 思い出せない。仕方なく、自分で鍵を開けようとすると、ドアチェーンがかかっている。娘の様子だと正解を言うまで開けてくれそうにない。
困ったな、買い物を抱えて自宅のドアの前で立往生してしまう。合い言葉、何だったっけ?
こないだテレビで、固定電話にかかってきた電話からトラブルに巻き込まれるニュースを娘と見て、合い言葉を決めようとなった。それは覚えてるけど、いっぱい候補が上がって、結局……、そうだ思い出した!
「合い言葉言うよー、カピバラ!」
「当たりー!」
カチャリとドアチェーンを外す音がする。ドアを開けると満面の笑顔。
「お母さん、覚えてたね!」
あれから何年か経つのに、いまだに家に電話をかけるたびに、合い言葉を言わされる私です。
#69