青い薄紙を貼り付けた行灯を百個用意した。
新月の真夜中。行灯以外に明かりは無い。
人々が寝静まり、人ならざるものが闊歩する刻。
私は今から、俗に言う百物語を始めるのだが、
皆が思うような百物語とは少し違っている。
一話目は、夢のない少女のお話。
寝ること以外に価値を見いだせなかった少女が、
人に叱られ、励まされ、夢を見つける話。
そう、これは怪談では無い。
誰かの、誰のものでもない話。
胸が痛くなるような恋愛話。
昔を懐かしむような思い出。
…殆どは拗れた愛情の悲劇だったが。
とうとう九十九話を話し終わった。
即興故に時間がかかってしまったが、
幸いにも朝日が昇る気配は未だ無い。
残る行灯は一つだけ。
身体が青い光に照らされ、まるで死人のようだ。
これを消したらば、青行灯に会えるのだろうか。
それとも、怪談では無いからと無効にでもなるか。
震える身体を抑える。
冬の夜だ、寒気にでも襲われたか。
否、未だ見ぬ化物への恐れか。
いや違う。これは嘗て無いほどの興奮だ。
今まで私の話を聞いてくれる者など、
話す事を許してくれる者など居やしなかったから。
もはや私にとって、化物が現れるかはどうでもいい。
ただこの話を続けられるなら、何が起きても構わない。
「もう少し、聞いていてくれ。」
記念すべき百話目だ。さて、何を話そうか。
目を合わせて笑い合うような、
手を繋いで恥ずかしがるような、
柔らかいところに触れて愛おしくなるような、
夢見心地を今でも忘れられなくて。
純粋に恋を愛していたあの頃に戻りたくて。
それ以上の快感を知り、戻るに戻れなくて。
恒例となっていたやけ酒に、
いつの間にか相席していた名前も知らぬ男。
潤む視界が、男の顔を鮮明に映してくれない。
ただ優しく宥める声に、包み込むような手の温もりに、
忘れかけていた恋の味を思い出せた気がした。
あの夢のつづきを、貴方なら見せてくれるかしら。
熱を孕んだ頬は酒のせいにして、男の手を引いた。
冷たい風が開いた首元を撫でる。
思わず身震いをして、肩を竦めた。
感覚のない指先が、貴方の体温を求めている。
寒空の下に晒された頬は、貴方を想うと熱を孕む。
悴んだ足は、今にも貴方の元へ走り出しそうで。
白い息を吐き、貴方の名前を呼んだ。
寒さを理由に、貴方の熱で温めてもらうの。
冬のはじまりは、貴方の胸の中で迎えたい。
気付かなかったの。
この気持ちが恋なんだって。
だって、こんなこと教わらなかった。
胸がドキドキするとか、
貴方が輝いて見えるとか、
貴方の事をずっと考えてしまうとか、
そんなものじゃなかったから、気付けなかった。
貴方の好きなところなんて答えられないし、
悪い所なんていくらでも言えてしまうけど。
夢に貴方が出てきた時に、
隣に貴方を求めてしまった時に、
わかってしまったの。貴方を好いていると。
貴方じゃなきゃ駄目な理由は出てこないけど、
それでも貴方がいいと思えたから。
これを恋と呼ばないのなら、私はきっと人を愛せない。
さりげなく貴方の手に触れる。
夢では感じなかった温もりが、ただ嬉しくて。
お願い。この時間を終わらせないで。
まだ、この恋心を冷ましたくないの。
ついてない、そう思った。
大したことも無い、ごく普通の日常。
それでも少し、疲れていた。
今日の朝は少し余裕がなくて、
天気予報を見落としていたんだ。
何時も、折り畳み傘持ってたのにな。
今日に限って、忘れてしまったよ。
嫌な予感はしていたんだ。
黒く分厚い雲が近づいて来たから。
ぽつぽつと、肩に雨粒が落ちる。
静かに染み込んで、体を冷やした。
周りが傘を差していく。
言い知れぬ疎外感に、身を震わせた。
柔らかい雨が頭を、輪郭を撫でる。
それは母の手つきを彷彿とさせるもので。
最後に頭を撫でてもらったのは、いつだっただろうか。
嫌いなものを残さずに食べられた時。
母の手伝いをした時。
テストで良い点を取った時。
温かくて大きな手に、頭をこねくり回されたものだ。
そして今、日頃の苦労を労わって貰えたようで。
尚も体は寒さで震えているが、
胸の奥がじんわりと熱を孕んだ。
たまには、傘を忘れるのも悪くないかもな。
眩しく、暖かく、そして当たり前だった過去に耽った。