君の目が伏せられた瞬間、
止められなかった思いが溢れた。
今日はいつもに増して辛かったんだ。
思い通りにいかなかった。許せないことがあった。
慰めて欲しかった。僕は悪くないと認めて欲しかった。
こんな僕の浅ましさを、君には知られたくなかった。
きっと君は優しく頭を撫でてくれるだろう。
柔く微笑んで僕を受け入れてくれるだろう。
知っているよ。誰よりも知っている。
そんな君だから、好きになれたんだ。
そんな君だから、知られたくないんだ。
君の目が覚めるまでには、いつもの僕に戻るから。
どうにか立ち直るから。この汚い涙痕を隠すから。
どうかその瞳に、こんな無様な姿を映さないで欲しい。
どうか今だけは、君の寝顔に縋ることを許して欲しい。
君は心の強い人間だね。
初めて君という存在を認知した時、そう思ったよ。
どんな人間にも、何度だって手を差し伸べる。
助けを必要としている者を決して見逃さない。
誰かを救うためには自己犠牲をも惜しまない。
誰にも真似出来ない強さが、君にはあった。
そして君は、僕にもその手を伸ばした。
現状に絶望していた僕に君は笑顔を向けたんだ。
屈託のない笑み。飾らない綺麗事。
全てが眩しくて、暖かかった。
きっと僕でなければ、泣き崩れ感謝しただろう。
君という人間を、神か仏かと錯覚したかもしれない。
僕でなければ、心が穢れている僕でなければ、
君のその強い心に憎しみなど覚えなかったはずだ。
君の眩さに目を焼かれ、君の温もりに心を抉られた。
君の善意を、悪意と憎悪で返してしまった。
それでも君は、嬉しそうに受け取ったんだ。
それがまるで光り輝く宝石のように。
大事に大事に、何よりも大切だと言わんばかりに。
君は、たとえ嵐が来ようとも、
逃げも隠れもせずに立ち向かうのだろう。
その暴風雨を一身に受け止めるのだろう。
誰も傷付かないよう、自らを犠牲にして。
慈愛の笑みを、自然の脅威に向けながら。
そんな姿を見た全ての者は救われるのだ。
ただ一人、君から目を背けた僕を除いて。
浮かない顔で微笑む君に、僕の手を伸ばした。
君は何時でも彼の顔を覗いている。
自分と合わない目線に傷付き、
彼の口から発される知らない女の名前に嫉妬する。
実に生きづらそうで、可哀想。
そんな君が、本当に可愛くて。
君の視界に僕が居ないことは分かっていた。
君が僕を彼と重ねて見ていたことも。
それでもいいんだ。それでいいんだ。
君の横に居られるなら、それでいい。
彼を好いている限りは、それでいい。
疲れた時には頭を撫でて慰めてあげるから。
辛い時は思いっきり抱き締めてあげるから。
僕を彼だと思って接していたっていいから。
友愛を超えるまでは、何をしてもいいから。
僕をなんとも思っていない、
彼を愛している君が好きだ。
僕達の関係性は友情でいい。
それ以上は望んでないから。
ずっと私は自分の名前が嫌いだった。
私の名前の後には、いつも悪口が続くから。
私は頭が悪いとか、気が触れているだとか、
私の事を何も知らないくせに、私の名前を呼んでくる。
他人に呼ばれる自分の名前が大嫌いだった。
君は初対面なのに私の名前を呼んだ。
普通は苗字で呼ぶものでしょう?
馴れ馴れしくて感じが悪かった。
ただでさえ名前を呼ばれる事が嫌いなのに。
でも君は明るい声で、眩しい笑顔で私の名前を呼んだ。
私の名前の後にはいつも、私を慕う言葉が続いていた。
素直に嬉しかった。私の名前が輝いて聞こえた。
君が呼ぶ私の名前だけは、大好きになれた。
君が話せなくなった。
喉の癌だった。声帯を取ったらしい。
二度と君の口から音が出ることはなく、
二度と私の名前を呼ぶこともない。
それでも君はいつものように笑っていた。
私に向かって、とびきりの笑顔を見せるのだ。
君は泣いていないのに、笑っているのに、
どうしても涙を止めることが出来なかった。
君は呆れたように笑いながら、白紙に何かを書いた。
私に宛てたその紙には、大きく書かれた私の名前が。
それは、私の名前かわからないほど綺麗で。
見蕩れてしまうほど美しくて。
君の声で、君の手で、君の目で呼ぶ私は、
この世界の何よりも幸せだと思えたんだ。
今でも大切に仕舞っている。
どんな宝石よりも輝いている、私の名前を。
傷付いた貴方しか愛せない私を許して。
私だけの貴方しか愛せない私を愛して。
貴方が血を流していいのは私の目の前でだけ。
貴方が涙を流していいのも私の目の前でだけ。
貴方に降り注ぐ全ての不幸の元凶が私であるために。
貴方の全てを否定し、痛め付ける存在であるために。
貴方を傷付けるのは、抗う意思を失わせるため。
貴方の頭を撫でるのは、私から逃がさないため。
貴方をずっと、私だけのものにするため。
傷付けられたら、喉を枯らして泣き叫んで。
責められたら、諦めたような瞳で見つめて。
優しくされたら、困惑しながらも微笑んで。
貴方の見せる表情の全てが、私だけのもの。