私が蝶よ花よと愛でてきた、年の離れた妹は、齢二十にして可憐に女ほころび咲いて、愛する男のもとへ羽ばたいていった。
姉の私はただの一度も咲きもせず、朽ちてゆくだけ。それで構わない。最愛のあの子が、幸せに満ち満ちて暮らしてゆけるのであれば、私はどんな苦労も厭わない。
私たちは早くに父母を亡くし、頼れる親類縁者もいなかった。姉妹二人、手を取り合い支え合い、身を寄せ合って生きてきた。そんな妹が手を離して去ってゆくのは、とても寂しい。しかし、ともに重ねた苦労の中で固く結ばれた私たちの絆は、今でも変わらないと信じている。
妹を守り育てるという、私の役目は終わったのだ。それは安堵とともに虚しさを連れてきた。私は生きがいを失ったのだ。これから何を心の支えとして生きてゆけばよいのだろう。
働き詰めの毎日で、恋人はおろか友人も趣味もない。これから職場と家を往復するだけの単調な日々を続けていくのかと思ったとき、ふっと糸が切れてしまった。
そうして私は十年間勤めた職場を辞め、ふらりと一人旅に出た。ただ足の赴くままに、様々な土地をさまよった。
これは、そんな私の放浪記。たくさんの出会いと気づきを書き留めた、私の大切な記録。この頁を開いてくださったあなたにとって、何かしらのきっかけになれたら嬉しい。
人生という旅の中で、どんな嵐が来たとしても、二人一緒なら、きっと大丈夫。
私の隣でそう笑ったあなたは、どんな嵐が来るよりも先に去っていった。
「無垢は無知だよ」
風に揺れるクリーム色のカーテンが、秋めく残照をちらつかせる。二人きりの教室は、さっきまでの日常から切り取られてしまったようだ。窓辺に佇む少女の歌うような言葉に、私はただ瞬きを重ねた。その無言の問いかけに、彼女は続ける。
「赤ん坊がいい例さ。彼らが無垢と呼ばれるのはなぜか?知識を得たら、脳にその色がつくだろう?ということは、何にも染まっていない状態、つまり、全くの無垢は全くの無知ということになる」
薄い唇の端がふっと吊り上がり、ほのかに得意げな目が、帰り支度の手を止めた私を捉える。
「人間みな、何かしらで染まり染められ、染めているんだよ」
よくわからないと思ったはずなのに、彼女の言葉はなんとなく腑に落ちた。それが彼女にも伝わったのか、少女は我が意を得たりと頷いて、制服の裾を翻す。また、歌うように言い残して。
「私は、君は、いったい何色に染まるかね」
「雨、止みませんね」
曇天からさらさらと降りしきる銀糸に流されそうな呟きが、淡桃の唇からぽつりと零れ落ちた。微かに震えるその音を聞き拾った少年は、数歩隣に佇む声の主を見やる。そこには、淡桃の唇を生真面目に引き結ぶ、秋の月に似た横顔が、凛と冴えた眼差しを白く煙る彼方へ向けていた。少年は隣人に柔らかく微笑み返す。
「大丈夫、止まない雨はないから」
春の陽射しのように暖かな言葉は、静かに澄む月に影を落とした。あら、僕は何か間違えたかしらと小首を傾げる少年の耳を、淋しげな囁きが掠めた。
「そうですね」
濡れた空には、薄く日が透け始めていた。
一週間。それは、マッチングアプリで出会った私達が付き合うまでにかかった時間。
いくらかメッセージを交わしたあと、初めてのビデオ通話。翌日には実際に会うことになり、その日のうちに告白されて交際が始まった。
一ヶ月。それは、彼と付き合いだしてから私が実家を出るまでの期間。
以前から実家での生活を窮屈に感じていた私の背中を彼が押す形で、住み慣れた家と家族を置いて、弾丸のように飛び出した。自分の名義で古いアパートの一室を借りたけれど、実際には二人揃って彼の家と私の家を交互に行き来していて、その暮らし方は同棲しているも同然だった。
一年。それは、私と彼が婚約するまでに交際した期間。
幸せなデートや大きな喧嘩を経て、なんとか二人で交際一周年を迎えることができた。バレンタインにも訪れた、思い出のフランス料理店でディナーを終える頃、彼は私に小さな布張りの箱を差し出した。ビロードの台座には澄ました顔で、小粒なダイヤが上品に輝いていたのを覚えている。特別断る理由も思いつかなくて、私は彼に頷いてみせた。
さらにその一年後には結婚し、そこから二年後には子供も二人生まれた。仕事、育児、家事、夫婦の時間が、私の人生に所狭しと詰め込まれ続けた。
こうして、私の自由な時間は失われた。今でもしばしば夢想することがある。あのとき、彼との同棲生活を少しでもやめていれば。あのとき、彼からのプロポーズを断っていたならば。私はもっと自由に、心豊かな毎日を過ごせていたのではなかろうか、と。
タラレバはきりがない。今の生活を選んだのは自分だし、子どもたちは本当に可愛い。だけど、それでも、やっぱり諦められないのだ。
失われてしまった、私だけの自由な人生を。