#想いを拗らせすぎた元暗殺者の話 (BL)
Side:Reynaud Blanchard
「…こんな俺に優しくしないでくれよ、頼むから…」
苦しげに絞り出されたイザイアの言葉に、僕はただ静かに首を横に振った。
僕がそんなことできるはずがないと、彼は嫌というほど分かっているはずだ。
それに…僕らは確かに愛し合っていた。だから、あの幸せな時間が失われたとは全く思っていない。
突然何も言わずに姿を消した最愛の人を約1年間探し続けてやっと見つけたというのに、ここでああそうですかと引き下がる訳にはいかない。
僕はイザイアにゆっくりと近づいて、花の手入れをしている彼を後ろから抱きしめた。
「…何のつもりだ、レノー」
「君がいなくなったあの日から…何を食べても美味しく感じなくなったし、城のバルコニーから夜空を眺めるたびに君との時間を思い返して苦しくなった。僕がこの1年間どんな思いで君を探していたか、分からないだろう?」
「…」
「…会いたかった。ずっと君に会いたかったんだよ、イザイア」
「元とはいえ、俺は暗殺者だ。仕事のために何度もお前を殺そうとした俺にはお前に愛される価値も、お前を愛する資格もない…!」
「イザイア、落ち着いて…もう黙って…」
…価値がないだなんて言葉、もうイザイアの口から聞きたくない。
またあの頃のように、その逞しい腕の中に僕を閉じ込めてくれよ…!
僕はイザイアの両肩を掴んで強制的に僕の方へ向かせると、半ば衝動的に彼の唇を奪った。
「…っ!」
離れ離れになっていた約1年分の時間は取り戻せないけれど、もう彼を独りになんてしない。
もう二度と、愛する資格がないなんて言わせない。
…愛してほしい…。
僕は何度か角度を変えて唇を重ねた後、ゆっくりと彼を解放した。
「…君くらい力が強い人なら、僕を簡単に突き飛ばせただろうに…」
「…」
「それをしなかったのは…そういうことだと思っていいの?」
「…言わせるな」
「…え。イザイア…っ!?」
イザイアが突然僕のシャツの襟元を掴んだかと思いきや、ガブッと噛みつくようなキスをお見舞いされた。
…約1年ぶりの、彼からのキスだ…!
このキスだけで、僕のあんなに悩んで苦しみ抜いた時間は決して無駄ではなかったのだと思えた。
「…と、突然だね…?」
「お前のキスだってそうだ」
「さっきのは…その、君がまた僕の聞きたくない言葉を言いそうだったから、つい…」
「…でも、いいのか?お前がシャサーヌ侯爵家の人間とはいえ、俺と関わり続ける限りお前は命の危機と常に隣り合わせになるんだぞ」
「ふふ…それは既に覚悟してるよ、君と初めて愛し合ったあの日からね」
イザイアの腕の中に再びおさまった時、僕はようやくゆっくりと息ができたような感覚がした。
嗚呼…なんということだ。
どうやら独りになるとダメなのはイザイアじゃなくて、僕のほうだったようだ。
【お題:失われた時間】
◾︎今回のおはなしに出てきた人◾︎
・イザイア・キアルージ (Isaia Chiarugi) 攻め 28歳 元暗殺者
・レノー・ブランシャール (Reynaud Blandchard) 受け 28歳 侯爵家の次男
#ある殺し屋さんの苦悩 (BL)
Side:Toka Himekawa
アンダーグラウンドな世界に生きる者たちが束の間の安らぎを得るために訪れる場所、それが住所非公開の隠れ家的バー「Vanellie-Rose (ヴァネリー・ローズ)」。
俺がこの場所を訪れるのには安らぎを得るのとはまた違う目的がある。それは…。
「ハーイ皆さん!変態クソマフィアを潰してきたばかりの藤佳さんの参上だよ〜!!」
「お〜、藤佳さん相変わらずキレイっすね〜!女装してるってことは、ハニトラやってきた感じっすか?」
「だと思うじゃん?これ自前よ自前♡」
「マジっすか!!?女装してなくてもこんなにキレイとかハニトラ向きのビジュすぎません!?」
「でっしょお〜??藤佳さんは自分磨きを一度も欠かしたことないからね!」
…コホン。いや、目的はこのチンピラたちじゃない。そもそも、興味がない。
ツルツルスベスベな美ボディーと中性的なビューティフルフェイスをもつ俺がいつも身綺麗にしているのは全て、ある男のためだ。
「ハロー、功一さん!ほらほら〜、お待ちかねの藤佳さんが来たよ〜ん」
「…」
「ねーえーーー、こーうーいーちーさーーーーん?」
「…いらっしゃいませ」
この寡黙で堅物な彼はここVanellie-Roseのマスター、菅生功一。
特にヤバそうな感じもしない普通の人間のように見えて、実は百戦錬磨の殺し屋である俺が初めて殺り損ねた男だ。
そんな彼の正体は、暗殺組織の撲滅を目的とする対暗殺者専門の秘密組織「J-RAVEN (ジェイ・レイヴン) 」が擁しているエリート傭兵、通称「Kay (ケイ) 」。
つまり…殺し屋をしている俺にとって、功一さんは何が何でも殺らねばならない天敵なのだ!
俺の長年培ってきたハニトラスキルで精一杯可愛くアピールしても、功一さんは一切俺のほうを見ようとしない。
それどころか、さっきから淡々とウイスキーのグラスを磨き続けている。何故俺の渾身の誘惑が効かない…!
…だが!だからこそ燃えてくるのがこの俺、百戦錬磨の藤佳さんだ。
「ねぇ…功一さん。藤佳さん今日ね、超〜〜サイアクなマフィアをたった1人で潰してきたんだ〜。すごいでしょ?」
「…そうですか」
ぐっ…またしても1分経たないうちに会話を強制終了されてしまった。でも、この塩対応にはもう慣れきっているし想定内だ。
…ああ、この男の鉄壁の無表情が崩れる瞬間が見てみたい。
あのチンピラたちさえいなくなってくれれば、功一さんと2人きりになれるのに。
俺は酔って絡み酒になったチンピラたちにウンザリしているフリをしながら、慣れた手つきでカクテルを作る功一さんを横目で見続けた。
…悔しいけど、俺よりもずっと大人でイイ男なんだよなぁ。功一さんって。
「…何を見ているんですか」
「えっ?ん〜…功一さんの顔?」
「…」
「ちょっとお〜…功一さんったら、そこはふざけたこと言わないで〜って言っていいとこだよ?」
「…」
あーあ、功一さんがまた喋らなくなっちゃった。つまんないの。
でも、功一さんが淡々と仕事しているところをただ眺めているだけなのも案外悪くないかもしれない。
…いや、別に惚れてるわけじゃないんだからね。
いつかは必ず彼を殺らないといけない。それは分かっている。
分かっている…はずなんだ。
「功一さん、だぁい好き〜っ!」
「…何ですか、急に」
「愛を叫びたくなっただけ♡」
「…分かりきった嘘をつかないでください」
「なぁんでぇ〜!?大好きなのはホントだってばぁ〜!!」
殺る機会を伺うためにあえてこんなことを言っているだけで、俺は断じてこの男に惚れちゃいない。
そう。俺は惚れてなんか、ない!
そしてこれは何故か天敵を殺せない殺し屋の苦悩と葛藤、そして殺し屋の襲撃を優雅に華麗にかわし続ける傭兵の熱い…熱い?攻防戦を綴る物語だ。
【お題:愛を叫ぶ。】
◾︎今回のおはなしに出てきた人◾︎
・菅生 功一 (すごう こういち) 攻め 37歳 傭兵(兼バーのマスター)
・姫川 藤佳 (ひめかわ とうか) 受け 26歳(※真偽不明) 殺し屋
#元ヤンカフェ店員と元ギャル男モデル (BL)
Side:Mikoto Ohtaki
9年前の春。当時23歳だった俺は、今までつるんできたパリピ仲間とは全く違うタイプの興味深い少年に出会った。
子どもたちが無邪気にはしゃぎ回っている中、彼1人だけが妙に浮いていたのを今でもよく覚えている。
…というよりかは、異様な存在感のある彼に誰も近づきたがらなかった。と言ったほうが正しいかもしれない。
『…何あの子、超クールじゃん…!』
初めて彼の姿を見かけた時の俺の感想がこれだった。
何故ならヴァイオリンが弾けるヤンキー中学生なんて、初めて出会ったから。
明らかにヤンキーだと分かる着崩した学ラン姿で淡々とヴァイオリンを奏でる彼と、彼の周りをひらひらと舞うモンシロチョウとモンキチョウの対比が、俺の目には美しく映った。
『Bravo~!すごいねぇキミ、ヴァイオリン弾けるの?』
『…ぁあ゙?テメェも俺のこと冷やかしに来たのか』
あの頃の彼が俺の褒め言葉を素直に受け取らなかった理由を知ったのは、確か彼がたった1人でヤンキー集団を制圧したのを目撃した時だった。
彼が言うには、最初は純粋にヴァイオリンが大好きだったけど、それを「ヲタク」だとバカにしてきたヤンキー集団を蹴散らしていたらいつの間にかヤンキーたちから恐れられる存在になっていたのだという。
そんな彼の名前は、樋上勇河。
『キミはすごいよ、勇河クン!だからヴァイオリンを好きだって気持ち、絶対なくしちゃダメだよ?はい、お兄さんと約束しよ〜う!』
『はぁ?お兄さんって…どう見てもオッサンの間違いだろ』
『も〜、またそうやって照れ隠しする!俺さんこれでもモデルだし!大瀧実琴って知らない??』
『あ?…あ〜、誰だっけか』
『うわ、ひっど〜ぉっ!!』
それから俺はモデルの仕事の合間を縫っては、勇河の演奏を聴きに公園を訪れるようになった。
バリバリのヤンキーだった中学生の頃は俺に聴かれるのをウザがっていたのに高校生になってからは俺を追い返さなくなって、そのうえ俺のことを「実琴サン」と呼んでくれるようになって…。
そして9年経った現在の彼はというと、まだヤンキー時代の口の悪さが抜けてなくてほんのりトガッてはいる…けど、音楽カフェで働きつつ大好きなヴァイオリンを続けている。
「ゆ、う、が、く〜ん♪ 来ちゃった♪」
「…はい、今日は何しに来たんすか実琴サン」
「ヴァイオリン聴かせて!」
「声がでけぇ!…てか変装しろよアンタ目立つんだから」
「え、俺さんがファンにお忍びがバレた時のこと心配してくれてるの…??え、優しいね…?」
「あ゙???んなわけあるか、とっとと注文決めやが…じゃなくて、注文決めてください」
このツンツン具合と完全には脱ヤンできてないところが可愛すぎ~~!!!!
他のお客さんと話している時は割とちゃんとした敬語で話しているのに、俺がカフェにお忍びで来るとあの頃から変わらないこのつれない態度が復活するもんだから俺の頬は緩みまくってしまう。
「何笑ってんすか」
「ん〜?別にぃ~??あ、いつもので!」
注文したアイスコーヒーを待っている間にカフェの外に目をやると、ずらりと並んだ花壇にモンシロチョウが遊びに来ていた。
モンシロチョウを見ていると、当時13歳の勇河少年のあの姿を思い出す。
あの日からずっと彼がヴァイオリンを好きなままでいてくれたんだなと思うと、何か心に込み上げてくるものがある。
「…ハイ、お待たせしました」
「おっ!ありがとうございま〜す!じゃ、後でぜっったいヴァイオリンの演奏聴かせてね?」
「気ぃ向いたらな」
…な〜んて言いつつ、いつも弾いてくれるくせに。
俺は勇河の反応にクスクス笑いながら、彼の淹れてくれたアイスコーヒーをお供にまったりのんびりと休日を楽しんだ。
【お題:モンシロチョウ】
◾︎今回のおはなしに出てきた人◾︎
・大瀧 実琴 (おおたき みこと) 攻め 32歳 人気モデル(元ギャル男)
・樋上 勇河 (ひかみ ゆうが) 受け 22歳 カフェ店員(元ヤン)
#大人しい2人がまったり恋してみる話 (BL)
Side:Reo Noto
家事代行サービス事業の事務所の社長をしている母のもとで家事を教わりながら育った俺は、高校卒業後すぐに家政夫の仕事を始めた。
だがそれは特にやりたいことも明確な人生の目標もなく、ただ家事が得意だからやってみることにしたというだけで、家政夫の仕事は別に自分の天職だとは思っていなかった。
…ちょっと風変わりな売れっ子恋愛小説家の、深屋天璃さんに出会うまでは。
"契約の延長もしくは、再契約は可能ですか"
家政夫として働き始めてから約3年ほど経つが、俺の見た目と性格のせいで初回のトライアル段階で訪問したきりそこから依頼が途切れるパターンがほとんどだ。
だから深屋さんからの提案を聞いた時、一瞬言葉が出なくなった。
「…?」
「…あ、すみません。契約の延長を依頼人さんの方から提案されたのって初めてなので、ちょっと驚いてしまって」
"そうなんですか?すごく手際がいいから、リピーターさんがたくさんいるようなタイプに見えました"
「…はい、実はそうなんです。俺…会話苦手だし、それにこの見た目だから怖がられがちで」
「…」
…マズい。俺としたことが、依頼人さん相手に愚痴ってしまうなんて。
急にこんな話されても、反応に困るだけだよな…。
"確かに最初はちょっと怖そうだなって感じはしましたけど、無理やり会話し続けようと話題を振られるより居心地が良かったですよ"
「…えっ?」
"だから…野藤さんさえ良ければ、これからも家事代行をお願いしたいです"
どうやら今回の依頼人さんの性格は、俺の性格ととても相性がいいようだ。
深屋さんのように俺の見た目と性格ではなく家事能力を純粋に見てくれる依頼人さんは、この仕事をするうえでとても貴重な存在だ。
…ああ、家政夫やっててよかったって今初めて思ったかもしれない…。
もちろん俺は深屋さんからの提案を二つ返事で受け入れ、正式な契約を結んだ。
初回トライアルサービスでの契約時間は3時間だったけど、これからは月水金の週3日。
寝食を忘れて創作活動に熱中しがちな深屋さんのためにたくさん作り置きを作って、部屋と服を綺麗に保って…。
少し忙しくはなるけど、距離感と会話のペースが合う深屋さんからの依頼だから楽しくなることは間違いない。
「…ありがとうございます。たくさんいる家政婦さんの中から俺を選んでいただけて嬉しいです」
"いえいえ…家事同行サービスなんて初めて利用したから緊張しましたけどんぶり"
あ。深屋さん、最後誤字ってる。もしかして丼物好きなのかな?可愛いな…。
…ん?可愛い…?
今まで依頼人さんに対して仕事以外の感情を抱いたことはなかったのに、どうしてだろう。
可愛い誤字を見てしまったら、深屋さんがさらに可愛いく思えてきた。
"あ…ごめんなさい、誤字しちゃいました"
「大丈夫ですよ。可愛い…いえ、誤字ることは誰にでもありますから。焦らずゆっくり話してくれていいですよ」
"ありがとうございます…"
俺よりも20センチくらい身長が低くて、9歳年上で、俺と同じ大人しい性格の新しい依頼人さんをこんなに可愛いと思ってしまうなんて。
次回の夕食は親子丼でも作ってみようか。
仕事中の癒しになるように、部屋にいくつか花を飾ってみようか。
深屋さんのために仕事をする時間の全てが、きっとこれからいつまでも忘れられないものになるだろう。
【お題:忘れられない、いつまでも。】
◾︎今回のおはなしに出てきた人◾︎
・野藤 玲於 (のとう れお) 攻め 21歳 家政夫
・深屋 天璃 (ふかや てんり) 受け 30歳 恋愛小説家(PN:天宮シン)
#大人しい2人がまったり恋してみる話 (BL)
Side:Tenri Fukaya
僕は生まれつき、声がものすごく小さい。
体育会系男子並みの大声を出そうとすると、喉を裂かれるような痛みに襲われる。
そんな僕はいつしか、人前で一切声を出さなくなった。
何度も聞き返されるのは苦痛だし、頑張って大声を出そうとするのも苦痛だから、僕の場合は少し手間はかかるけどメールや筆談で伝えたほうが早く伝わる。
"天宮先生の最新作発売の告知をしてからSNSでのいいねの数がものっっすごいことになってますよ〜!見ました!?"
"そうなんですか?SNSってあまり使わないのでよく分からなくて"
"ふっふっふ、これからさらに先生の評判もうなぎ登りになっていくと思いますよ!"
僕の名前は深屋天璃 。高校生の頃からずっと恋愛小説家「天宮シン」として創作活動をしている。
ずっとお世話になっている担当編集の佐藤さんは僕の声の小ささのことをよく理解してくれていて、それが本当にありがたい。
「…これで暫くは、ゆっくりできるな…」
ところが、大きく伸びをしてから立ち上がって後ろを振り返ったとき、僕はあっという間に締め切り明けの開放感から現実に引き戻された。
「…また部屋が悲惨なことになってしまった…」
…そう。僕は創作活動をしていると、集中しすぎて身の回りのことが一切できなくなってしまうのだ。
ひどい時だと、寝食すら忘れてしまうこともある。
このままではいけないと分かってはいるのに、この散らかりきった部屋を見る度に僕に生活能力がまるでないことを思い知らされる。
高校卒業と同時に母の生家だった一軒家を借りて一人暮らしを始めて、それから今までの数年間は1人で何とかやってきたつもりだったが…そろそろ人の手を借りなければ足の踏み場がない状態の一歩手前までになりそうだ。
「…だが、こんな僕と少し手間がかかる会話を続けていける気の長い人なんているのか…?」
思い切って家事代行サービスのサイトを検索したはいいものの、早速大きな壁にぶち当たってしまった。
耳が聞こえるのに声を一切出さずに筆談だけで会話をする三十路男が雇い主なんて、僕の声の事情を知らなければ絶対気持ち悪がられるに決まっている。
だからといって担当編集の佐藤さんに掃除まで手伝わせてしまったら佐藤さんの負担も倍になるし、絶対に迷惑がられてしまう…。
ネガティブ思考の無限ループにハマり始めたその時、家事代行サービスに登録している家政婦さんたちのリストの中の、とある家政婦…いや、家政夫さんの名前に目が留まった。
「野藤玲於さん…というのか。女性の方が多いけど、同性のほうが気が楽かも…」
野藤さんは僕より9歳年下の21歳で、家事代行サービスに登録している人の中では数少ない男性でありながら、家事全般を得意としているオールラウンダー。
そして何より僕が惹かれたのが、彼のプロフィールに書かれていた「口数は少ないほうですが、会話を長く続けることが苦手な方をはじめ、病気などが原因で会話が上手くできない方でも対応できます」の文字。
「…この人なら…」
──────────
「…やってしまった…」
約3時間かけて、ついに僕はおそらく僕の人生史上いちばん大きな決断を下した。
僕の荒れきったこの家の家事代行を野藤さんに任せることにしたのだ。
初めて利用するサービスということで、とりあえず契約時間は3時間にした。
幸いなことに今日は野藤さんに先約がない日だったようで、連絡したらすぐに来てもらえることになった。
「…この惨状を見てドン引きされることは覚悟しておくか」
約40分後。
何となく落ち着かないまま玄関のドアの前を歩き回っていた時、インターホンが鳴った。
…覚悟を決めるんだ、僕…。
「…はじめまして。この度深屋様の家事を代行させていただく、野藤玲於です」
「…!?」
初対面の彼に僕が抱いた第一印象は「怖そう」だった。
僕よりもかなりガタイがよくて、身長は明らかに190センチはある。
そして…声色は落ち着いているけれど、どこか無感情だ。
…本当に、彼に任せて大丈夫なのだろうか…?
"はじめまして、深屋天璃です。声が小さすぎてよく聞き返されるので、普段から筆談で会話をしています。すみません、話しづらくはないですか?"
「…あぁ、なるほど。筆談を用いる方への対応は初めてではないので、大丈夫です」
"ありがとうございます…では、どうぞ"
簡単な自己紹介をした後、僕は野藤さんを自分の部屋へ案内した。
…彼の反応は、だいたい分かりきっている。
「…これは…」
"…すみません。創作活動をしていると他のことがおざなりになってしまいがちで、ついにこんな惨状に…"
「…いえ、掃除しがいのある部屋だなと思っただけです。早速始めるので、触ってほしくないものがあればその都度教えてください」
…いや、そうでもなかった。
今回はむしろ、彼のこの落ち着きように救われたかもしれない。
野藤さんはエプロンとマスクと手袋で武装した後、かなり慣れたペースで淡々と掃除を始めた。
彼は本当に口数が少ないタイプのようで、僕が別作業をしていても必要以上に話しかけてくることはなかった。
でも…僕にはそれが、何だか心地よく感じた。
──────────
「…さん」
「…?」
「深屋さん」
「…!」
なんということだ…。思いのほか緊張しなくていい空気感で気が抜けてしまったのか、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
僕がハッと体を起こすと、時刻は午後6時。契約時間は3時間だったにもかかわらず、気づけば1時間以上タイムオーバーしていた。
"すみません…いつの間にか眠ってしまっていたみたいです。延長料金はいくらでしたっけ?"
「…いえ。俺が望んで残ったので、その必要はないです」
「…?」
辺りを見回すと、あんなに散らかり放題だった僕の部屋はビックリするほど片付いていた。
あの部屋を…約3時間ちょっとで片付けられたのか?
そして、望んで残っていたとはいったい…。
その理由は、キッチンから漂ってくる美味しそうなにおいですぐに分かった。
"もしかして、夕食まで作ってくれたんですか?"
「あ…はい。片付けていた時にパスタの作り方の本を見つけたので、作り置き用のおかずと一緒に作ってみました」
"ありがとうございます…何から何まで"
「いえ…では、俺はこれで失礼します。ご利用ありがとうございました」
…なんだか、泣きそうだ。
一人暮らし続きで孤独を感じていた心が、野藤さんの優しさでじんわりと癒されていくのを感じる。
部屋は見違えるほど綺麗になったけど…もし僕がまた家事代行をお願いしたら、彼は来てくれるだろうか?
またいつか、彼の優しさに触れられるだろうか?
そう考えるより先に、僕の体が動いていた。
「…?深屋さん?」
「…」
野藤さんが玄関のドアを開けて出て行く前に、僕は彼の服の裾を掴んで彼を引き止めた。
そして僕は出せるだけの勇気を全て出して、彼にこう提案した。
"契約の延長もしくは、再契約は可能ですか"
「…!」
この瞬間を、後に僕は何度も思い出すこととなる。
今日が恋愛小説家でありながら恋とは何かを知らなかった僕の、初恋の日となったのだから。
【お題:初恋の日】
◾︎今回のおはなしに出てきた人◾︎
・野藤 玲於 (のとう れお) 攻め 21歳 家政夫
・深屋 天璃 (ふかや てんり) 受け 30歳 恋愛小説家(PN:天宮シン)