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4/13/2025, 1:39:01 PM

ひとひら

 先生が修復士として有名になったのは、とある資産家が持つ貴重な皿を直してからだった。持ち込まれた時は木っ端微塵で、皿の面影すらなかったそれらを、完璧に直した。それに感動した資産家が先生の噂を広めた。どんなものでも直してしまう優秀な修復士がいる、と。

 資産家が皿を持ち込んだ時のことはよく覚えている。漆の箱に破片は収められ、どうかと床に額を擦り付ける勢いで頼み込んできたのだ。真っ白で、汚れとは無縁の皿。どの破片を見ても花びらのように薄く、向こう側が透けて見えそうだった。聞けば、亡くなった奥さんが生前焼いた最後の皿だそうだ。彼女の作る皿は趣味で作るにしてはあまりにも完成度が高く、その業界では非常に高値で取り引きされていたらしい。
 そのためか、注文は至ってシンプルだった。完璧に直して欲しい。金継ぎはせず、この際皿としての機能は失われてもいいから、完璧に。
 先生は二つ返事でそれを請け負い、資産家が帰った後に深いため息をついた。
「骨が折れる仕事になりそうだ」
 そう言いつつも、どこかわくわくとした目をしていた。
 破片を貼り合わせた後、金継ぎの要領で白い絵の具を塗る。そうして完璧に直したように見せる。そういうことでまず、僕らは白の特定に入った。白と一口に言ってもベージュよりの白だったり明るい白だったり、無限にある。僕らは配合を少しづつ変えながら皿の白を作った。
 貼り合わせるのは先生の仕事だ。僕はまだ見習いなので、貼り合わせられそうな破片を隣同士で並べたり、絵の具や接着剤の準備をしたり、先生の仕事を見学したりした。どれもこれも白だったから、まるでミルクパズルをやっているようで頭が痛かった。けれど先生は、平気そうな顔をして次々と破片を貼り合わせた。
 順調に作業が進む中、事件は起こった。「まずいな」先生はこめかみを掻きながら机を見下ろしていた。
「欠片がない。探すのを手伝ってくれないか」
「もちろんです。どんな形ですか?」
「ちょうど、桜の花びらのような形だ」
 先生は指で空に形を描いてみせた。僕は頷き、作業場をくまなく探した。その間、先生には作業を進めてもらうことにした。
 果たして、破片は見つからなかった。机周りも、先生の部屋も、僕が寝泊まりしている部屋も、風呂場も洗濯機の中も冷蔵庫の中も探したけれど、どこにもそれらしいものはなかった。焦る僕とは裏腹に、先生は落ち着いた様子で「作るしかないね」と言った。
「作る……?」
「さすがに同じ素材で同じものは作れないが、幸い依頼主は皿としての機能は失われていいと言っている。やるしかないさ」
 偽造と言うと聞こえは悪いが、先生はとにかく何が何でも直すようだった。僕はそれも見学しようと思ったが、生憎そろそろ別の依頼人の物を届けなければならない時間だった。

 かくして、先生の修復は成功した。僕が帰ってきた時にはすでに破片は作られ、それを組み込んで貼り合わせた皿は元の通りに戻っていた。資産家は何度も頭を下げ、必ずお礼はしますからと何度となく言い、先生と僕と順に握手をして去っていった。
「結局、あの破片はどこに行っちゃったんでしょうね」
 僕が独り言のように言うと、先生は少し考え、
「あるべき場所に帰ったのさ」
 と言った。先生は目を細めて、窓から見える桜の木を見つめていた。

4/6/2025, 1:38:46 PM

新しい地図

 今思うと、姉の部屋はおおよそ子供らしいものではなかったと思う。壁には本棚が並べられ、そこにびっしりと本が収まっていた。覚えている限りでは、教科書はもちろん、小説、詩集、辞書、図鑑といった、活字がメインのものばかりで、漫画は一冊もなかったと思う。
 いつ部屋を訪ねても、姉は本を読んでいた。どうしたの、と言いながら名残惜しそうに栞を挟む姿に、いつも不思議な気持ちがしていたのを覚えている。何がそこまで姉を惹き付けるのか、僕にはいくら活字を追いかけてみても理解できなかった。
 一度、姉にこの中で一番好きな本は何かと尋ねたことがある。姉は少し考えて、「本じゃないけど」と一言添えた上で、くるくると巻かれて壁に立てかけられたポスターを指した。「世界地図よ」元は壁に貼られていたが、本棚を増やした関係で下ろすことになったらしい。
「私がこの部屋を貰った時に、お父さんが貼ってくれたの」
 姉はそう言いながら、地図を広げた。僕は端を持ってそれを手伝った。長いこと丸めていたせいでくるくると戻ろうとするものだから、辞書や鞄を重石にして、何とか広げきれた。
 大きな世界地図だった。僕の部屋ならばいざ知らず、姉の部屋には確かにもう飾れるスペースは無い。国名は全て英語で書かれ、その二つほど下のサイズで首都も書かれている。国ごとに色がつけられ、同じ色は一つとしてない。と、姉は言ったが、僕にはいくら説明を受けてもその微妙な違いが分からなかった。
「ここ、見て。こんな大海原に、小さな帆船が一隻。乗員にはどんな事情があるのかしら」
「ただの漁船じゃないの?」
「そうかもしれないわね。たくさん魚を獲って、陸に帰る。そういうつもりで海に出たのに、いくつものアクシデントに巻き込まれてここまで来てしまった。乗員のやるせなさが目に浮かぶわ」
 私の考えはこうよ、と、姉はその帆船の絵について、いくつか物語を教えてくれた。もちろん、すべて姉の創作だ。それに、この世界地図の作者としては、そこまで深く考えて帆船のイラストを入れたのではないと思う。けれど、僕は姉の作った物語を聞くのが好きだった。姉も、僕がなにか考えを言うとそれを決して否定せず、そこから物語を作ってくれた。僕らにとって、世界地図は最も大きな冒険の入口だった。


 大学を卒業して、姉は家を出ることになった。これを機に断捨離を宣言した姉は、うんうん唸りながらも持っていく本と捨てる本とを選別していった。
「何か欲しいものがあればあげるわ」
 僕は真っ先に、世界地図と答えた。姉はぱちぱちと瞬きをして、少し考えた。
「持っていくやつだった?」
「いえ……ただ、あれだいぶ古いでしょ? 本当にいいの? あれで」
「あれがいい」
 姉は微笑んで、わかったと頷いた。
 大海原を進む帆船、北極の近くではねるクジラ。頭に荷物を乗せて運ぶ女性に、森林を向いて写生をする画家。とある大陸には高いタワーがいくつもそびえ立ち、別の国では派手な衣装の人々が笑顔で踊っている。姉の創った物語たちは、今僕の部屋で息をしている。新しい地図はしばらくいらないな、と僕は帆船を撫でた。あの時の僕らを懐かしむように、漁師のやるせなさを慰めるように。

3/25/2025, 2:26:17 PM

記憶

 一体、弟は何度二十五メートルのプールを行き来したのだろう。わたしはもうとっくに疲れてプールサイドに座っているというのに。真正面の時計は、ちょうど十二と六を指していたが、いつわたしたちがここに来たか、いつわたしがプールから上がったかは定かではなかった。
 クロール、背泳ぎ、バタフライ、平泳ぎ。弟は二十五メートルごとに、きっちりその順で泳ぎ方を変えた。二周目の平泳ぎが終わったあたりで、「もう帰りましょ」と声をかけたが、弟の耳には届かなかったようだった。クロール、背泳ぎ、バタフライ、平泳ぎ、そしてまたクロール。わたしはもう、いかなる言葉をかけるのもやめた。彼が満足のいくまで泳ぐのに、付き合うことにしたのだ。
 わたしは改めて、弟の泳ぎを眺めた。生まれつき奇形の足を持つ彼にとって、泳いでいる間は自分が自分でいられた。歩いていると人は皆、弟の不自然な歩き方や足の形を気にするけれど、水に入っていれば、飛沫とバタ足の速さで気にならない。弟は自由に、そして美しく泳いだ。両親やスポーツクラブの大人たちはいかに速く泳ぐかに焦点を当てたが、弟にとってそれは二の次だった。弟の泳ぎは、どの部分を切り取っても美しかった。
 ぴんと一直線に伸びた指は、クロールで離れた後もぴったりと元に戻ったし、交互に現れるつま先は、規則正しいリズムで水面を叩いた。体が傾く度に見える背骨には少しの歪みもなく、思わずなぞってみたくなるような衝動に駆られる。彼の体は、どこまでも泳ぎに向いた完璧な体だった。
 ふと、バタフライの途中で弟が足を着いた。立ち上がって「どうしたの?」と尋ねる前に、彼は、
「帰ろう」
 と言った。
「帰ろうって……だってまだ、バタフライが半分と平泳ぎが残ってるわ」
「そうだけど……でも、そろそろ帰らなきゃ」
 彼の目線がちらりと時計に向いた。今から急いで準備をすれば、ギリギリいつものバスに乗れそうだった。
「いいのよ、言い訳くらいいくらでもあるわ。シャワー室がなかなか空かなかったとか、道が混んでいたとか」
 わたしは、プールの縁に腰を下ろした。すっかり乾いていたふくらはぎが、ひんやりと冷たい水の世界に包まれる。
「もうちょっと見ていたいの」
 わたしが言うと、弟はおずおずと頷き、再び水に顔をつけた。彼が起こす波が、わたしの足に伝わってくる。
 僕の前世は魚かもしれない、と昔弟が言った時、わたしはくすくすと笑いながら図鑑を開いた。それならあんた、きっと熱帯魚のどれかね、だって速い魚は違うもの。お互いあれこれと指をさしながら図鑑を眺めた。けれどどれもしっくりくるものがなく、母親の夕飯を知らせる声で前世を考える会はお開きになった。
「あんたの前世が魚なら、わたしはきっと違う何かよ」
 そうでなければ、わたしの足に理由がつけられない。もしわたしも元々魚だったというのなら、わたしの足も歪ませてくれたって構わないのに。

 穏やかなターンが見えた。弟はバタフライを泳ぎきり、ついに最後の平泳ぎが始まった。

3/20/2025, 1:56:35 PM

 あなたの指の形がよく分かる。すらりとしていて、骨ばっていて、心地よい体温を私に分けてくれる。ペンを握り、ギターを操り、時折料理をし、そして私に触れる指先。私があなたの体の中で一番好きなところ。
 私から手を繋ぐと、あなたはそれが自然だとでもいうように私の手を包んでくれる。本当はもっと強く握ってほしい。境目が分からないくらい強く握って、いずれ一つの生物みたいになれたらいいのに、と思う。
 けれどきっと、そう言ったところであなたはそうしないのだ。私の手を傷つけたくないから、と言うのだろう。そういう木漏れ日のような優しさが、私は好きなのだ。