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記憶

 一体、弟は何度二十五メートルのプールを行き来したのだろう。わたしはもうとっくに疲れてプールサイドに座っているというのに。真正面の時計は、ちょうど十二と六を指していたが、いつわたしたちがここに来たか、いつわたしがプールから上がったかは定かではなかった。
 クロール、背泳ぎ、バタフライ、平泳ぎ。弟は二十五メートルごとに、きっちりその順で泳ぎ方を変えた。二周目の平泳ぎが終わったあたりで、「もう帰りましょ」と声をかけたが、弟の耳には届かなかったようだった。クロール、背泳ぎ、バタフライ、平泳ぎ、そしてまたクロール。わたしはもう、いかなる言葉をかけるのもやめた。彼が満足のいくまで泳ぐのに、付き合うことにしたのだ。
 わたしは改めて、弟の泳ぎを眺めた。生まれつき奇形の足を持つ彼にとって、泳いでいる間は自分が自分でいられた。歩いていると人は皆、弟の不自然な歩き方や足の形を気にするけれど、水に入っていれば、飛沫とバタ足の速さで気にならない。弟は自由に、そして美しく泳いだ。両親やスポーツクラブの大人たちはいかに速く泳ぐかに焦点を当てたが、弟にとってそれは二の次だった。弟の泳ぎは、どの部分を切り取っても美しかった。
 ぴんと一直線に伸びた指は、クロールで離れた後もぴったりと元に戻ったし、交互に現れるつま先は、規則正しいリズムで水面を叩いた。体が傾く度に見える背骨には少しの歪みもなく、思わずなぞってみたくなるような衝動に駆られる。彼の体は、どこまでも泳ぎに向いた完璧な体だった。
 ふと、バタフライの途中で弟が足を着いた。立ち上がって「どうしたの?」と尋ねる前に、彼は、
「帰ろう」
 と言った。
「帰ろうって……だってまだ、バタフライが半分と平泳ぎが残ってるわ」
「そうだけど……でも、そろそろ帰らなきゃ」
 彼の目線がちらりと時計に向いた。今から急いで準備をすれば、ギリギリいつものバスに乗れそうだった。
「いいのよ、言い訳くらいいくらでもあるわ。シャワー室がなかなか空かなかったとか、道が混んでいたとか」
 わたしは、プールの縁に腰を下ろした。すっかり乾いていたふくらはぎが、ひんやりと冷たい水の世界に包まれる。
「もうちょっと見ていたいの」
 わたしが言うと、弟はおずおずと頷き、再び水に顔をつけた。彼が起こす波が、わたしの足に伝わってくる。
 僕の前世は魚かもしれない、と昔弟が言った時、わたしはくすくすと笑いながら図鑑を開いた。それならあんた、きっと熱帯魚のどれかね、だって速い魚は違うもの。お互いあれこれと指をさしながら図鑑を眺めた。けれどどれもしっくりくるものがなく、母親の夕飯を知らせる声で前世を考える会はお開きになった。
「あんたの前世が魚なら、わたしはきっと違う何かよ」
 そうでなければ、わたしの足に理由がつけられない。もしわたしも元々魚だったというのなら、わたしの足も歪ませてくれたって構わないのに。

 穏やかなターンが見えた。弟はバタフライを泳ぎきり、ついに最後の平泳ぎが始まった。

3/25/2025, 2:26:17 PM