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新しい地図

 今思うと、姉の部屋はおおよそ子供らしいものではなかったと思う。壁には本棚が並べられ、そこにびっしりと本が収まっていた。覚えている限りでは、教科書はもちろん、小説、詩集、辞書、図鑑といった、活字がメインのものばかりで、漫画は一冊もなかったと思う。
 いつ部屋を訪ねても、姉は本を読んでいた。どうしたの、と言いながら名残惜しそうに栞を挟む姿に、いつも不思議な気持ちがしていたのを覚えている。何がそこまで姉を惹き付けるのか、僕にはいくら活字を追いかけてみても理解できなかった。
 一度、姉にこの中で一番好きな本は何かと尋ねたことがある。姉は少し考えて、「本じゃないけど」と一言添えた上で、くるくると巻かれて壁に立てかけられたポスターを指した。「世界地図よ」元は壁に貼られていたが、本棚を増やした関係で下ろすことになったらしい。
「私がこの部屋を貰った時に、お父さんが貼ってくれたの」
 姉はそう言いながら、地図を広げた。僕は端を持ってそれを手伝った。長いこと丸めていたせいでくるくると戻ろうとするものだから、辞書や鞄を重石にして、何とか広げきれた。
 大きな世界地図だった。僕の部屋ならばいざ知らず、姉の部屋には確かにもう飾れるスペースは無い。国名は全て英語で書かれ、その二つほど下のサイズで首都も書かれている。国ごとに色がつけられ、同じ色は一つとしてない。と、姉は言ったが、僕にはいくら説明を受けてもその微妙な違いが分からなかった。
「ここ、見て。こんな大海原に、小さな帆船が一隻。乗員にはどんな事情があるのかしら」
「ただの漁船じゃないの?」
「そうかもしれないわね。たくさん魚を獲って、陸に帰る。そういうつもりで海に出たのに、いくつものアクシデントに巻き込まれてここまで来てしまった。乗員のやるせなさが目に浮かぶわ」
 私の考えはこうよ、と、姉はその帆船の絵について、いくつか物語を教えてくれた。もちろん、すべて姉の創作だ。それに、この世界地図の作者としては、そこまで深く考えて帆船のイラストを入れたのではないと思う。けれど、僕は姉の作った物語を聞くのが好きだった。姉も、僕がなにか考えを言うとそれを決して否定せず、そこから物語を作ってくれた。僕らにとって、世界地図は最も大きな冒険の入口だった。


 大学を卒業して、姉は家を出ることになった。これを機に断捨離を宣言した姉は、うんうん唸りながらも持っていく本と捨てる本とを選別していった。
「何か欲しいものがあればあげるわ」
 僕は真っ先に、世界地図と答えた。姉はぱちぱちと瞬きをして、少し考えた。
「持っていくやつだった?」
「いえ……ただ、あれだいぶ古いでしょ? 本当にいいの? あれで」
「あれがいい」
 姉は微笑んで、わかったと頷いた。
 大海原を進む帆船、北極の近くではねるクジラ。頭に荷物を乗せて運ぶ女性に、森林を向いて写生をする画家。とある大陸には高いタワーがいくつもそびえ立ち、別の国では派手な衣装の人々が笑顔で踊っている。姉の創った物語たちは、今僕の部屋で息をしている。新しい地図はしばらくいらないな、と僕は帆船を撫でた。あの時の僕らを懐かしむように、漁師のやるせなさを慰めるように。

4/6/2025, 1:38:46 PM