側に
「お前にしては、珍しいな。風邪をひいて寝込むなど。前に外套をくれてやったろう?あれはどうした?」
「着たよ……でも、まさか川に落ちるとは思わないでしょ……温かくなるどころか、一瞬にして冷たくなっちゃったよ……」
私は、風邪をひいた。理由は任務の帰りにうっかり川に落ちたから。さらに運の悪いことにその日に限ってヴァシリーから貰った外套を着ていた。一緒に濡れてしまったそれは部屋に干されている。
ヴァシリーは干された外套を一瞥した後、ため息を吐いて私の方へ振り返る。
「………しばらくは寝ていろ。任務の書類も、こちらで預かる」
「え、何で……」
「真面目なお前のことだ。寝ていれば良いのに、書類などがあれば目を通したりするだろう?」
「………」
「これは預かるぞ」
ヴァシリーはサイドチェストに置いていた書類を取ると、書類を持っていない方の手で私の頭を撫でる。本格的に熱が上がってきたのか、彼の手はいつもよりも冷たく感じた。
(……冷たくて、大きな手。安心するな……あ、お父さんの手に似ているかも……)
そう思った瞬間にじわりと目の前が滲む。見えなくなった視界の向こうでヴァシリーが驚いたように息を呑んだ。
「な……」
「……行かないで、何処にも。側にいて」
思わず口からそんな言葉が吐いて出た。頭を撫でるヴァシリーの手を碌に力の入らない右手で握る。
「置いて行かないで。良い子に、するから」
どうしようもなく寂しくなった。ぼうっとする頭の片隅で、何処か冷静な思考が「死んだ両親のことを思い出したから」と結論に至っているのに、私の口から溢れるのは小さな嗚咽と幼子のような願いだった。
「………」
しかし、ヴァシリーは何も言わない。私の頭を撫でるその手がとても優しくて、ボロボロと涙があふれる。やがてヴァシリーは毛布ごと私を膝の上で抱えた。
これまでに彼に抱えられることはあったけど、その中でも特に強い力で抱きしめられる。
「……今更、捨てるはずも無かろう。お前は俺の教え子だ。お前の気持ちを蔑ろに出来るものか」
「ほんとう?」
視線をあげれば、戸惑いを浮かべた青い瞳と合う。
「俺が今まで約束を破ったことは?」
「無い。……信じるよ、ヴァシリー」
「ああ。お前が起きるまでこうしてやる。だから、一度寝ろ」
言われるがまま目を閉じる。思ったよりも早く睡魔はやって来て、私の意識はゆっくりと溶けていった。
(……)
こいつの泣き顔を見て、少し驚いた。こんなことで泣くような娘で無いと知っていたからだ。
「……親、か」
こいつの言葉はまるで、捨てられる前の幼子のようだった。いつもは表情一つ変えずに人命を奪うようなこの娘は、実のところずっと家族の温もりを求めていたのかもしれん。
いつもなら捨て置くはずの考えだ。だが、いつになく俺は物思いに耽っていた。
「くだらん」
簡単なこと。俺がその居場所になれば良い。こいつが求めた家族の温もりを、俺が、与えてやれば良いだけのこと。
「ミル」
この娘の顔を見ていると落ち着くような、むず痒いような気分になる。この気持ちが何なのかは分からんが。
(……悪くはない)
起きたら、存分に世話をしてやることにした。この娘が望む全てを俺が与えてやる。
そうすれば、こいつも俺に必要されていると嫌でも分かるだろうからな。
思慕
「くしゅっ」
ある日の兵法学の勉強中。ヴァシリーの部屋に来て、講義を受けている時に小さくくしゃみをした。顔をあげると、向かいに座っていたヴァシリーが怪訝そうにこちらを見ている。
「……ごめんなさい」
「………」
ヴァシリーは小さく息を吐く。体調管理がなっていないと叱られると思った。でも。
「最近、急に冷え込んだな」
「?うん、そうだね」
「お前に新しい服を用意してやらんとな」
「えっ。いや、いいよ。私が……」
「……俺が用意するものは受け取れないと?」
じとりと睨まれ慌てて「そんなことない」と訂正すれば、ヴァシリーは満足そうに小さく笑う。
「お前は俺の与えるものを大人しく受け取れば良い」
「……分かった」
ヴァシリーは椅子から立ち上がって私の背後に回ると、着ていた外套を私の肩に羽織らせた。
「とりあえず、講義が終わるまではそれで我慢しておけ」
「ありがとう」
その後は何事もなく講義は進んで行った。
数日後。季節は秋へと移り変わり、騎士たちの服装も厚着へと変わっていく。
その日に部屋にやって来たヴァシリーもいつもは寛げている外套を珍しくきっちり着ていた。
そして、彼の手には包みが。
「言っていたものだ。くれてやる」
「………」
驚きながらも包みを開けると、そこにあったのは上質そうな黒い外套。襟元と袖口にファーが付いていて、ふわふわしている。
「……いいの?」
「くれてやると言ったんだ。受け取れ」
無表情にそう言うヴァシリーとコートを私は交互に見る。
(でも、無碍にするのも良くない……それに、気になる)
着心地が気になって袖を通すと、とても心地が良かった。体温が外に逃げないから、すぐに温もりを感じるようになる。
「気に入ったようだな?」
「うん!とても!ありがとう、ヴァシリー」
私の反応に気を良くしたのか、ヴァシリーは満足げに笑うと私の頭をくしゃりと撫でる。
「お前はそうやって俺の与えるものに笑って受け取れば良い」
「なら、その分あなたの為に役に立ってみせる。多分、物よりもあなたはそっちの方が喜んでくれるでしょ?」
「はは!よく知っていたな。ミル」
「十年も一緒にいるから。それくらいは」
「そうか。だが、それでこそ俺の教え子だ」
機嫌良さそうに笑うヴァシリーに私も笑い返す。
普通の師弟と言うには少し歪かもしれないけど、少なくとも私は彼のことを師として慕っている。
いつかあなたの隣で戦えるよう、頑張るよ。
あなたはやっぱり私にとっての光。
微笑み
孤児だった私を助けてくれたその人は、とにかく気まぐれな人だった。感情のままに行動し、よく周りを振り回す。さらには歯向かう人たちには容赦なく斬り捨てるほど残忍な性格で、それらに対する罪の意識は感じていないようだった。
しかし、彼は気まぐれという割にはよく私を抱き上げる。時には就寝時の抱き枕扱いもあったけど。それも気分によるものだろうと分かっている。
共に過ごすようになって十年。彼のその様子にはすっかり慣れてしまった。そして、ひとつあることに気づいた。
(……ヴァシリーって、もしかして私に甘い?)
そのことに気づいたのはつい最近のこと。はじまりは騎士団の第三部隊長を務める友人のルカと共同任務後の昼食時。
「なぁ、ミル。あんたのお師匠様……ヴァシリー幹部って、あんたにはかなり優しいよな」
「そう、かな?割と厳しい方だと思う。鍛錬も容赦ないし、一歩間違えたらこっちが殺されそう」
「その割には兵法を教えたり、怪我をしたら手当てとか色々してくれているだろ?」
シチューを頬張るルカの顔を見ながら、私は考えながら答えた。
「……ただの気まぐれだと思う。あの人は私を拾った時にそう言った。私に色んなことを教えてくれたのも多分、自分にとって使える存在だからかも」
「………」
ふと、彼のスプーンの手が止まった。そして、いつになく真剣な顔で私のことを真っ直ぐに見つめる。
「ミル。現に拾われた時にお師匠様からそう言われたのなら、そう思うのも無理はない。だが、周りからすればあんたは確実に、ヴァシリー幹部に大切にされているんだよ」
「その根拠は?」
「ミル、騎士団の騎士たちがヴァシリー幹部に弟子入りしようとしている話は聞いたことあるか?」
「うん。ヴァシリーは強いから……この前も一緒にいた時に弟子入りをお願いしていた騎士がいたよ」
「で、そいつはどうなった?」
「ヴァシリーに鼻で笑われていた。……あ」
そこで私はようやく気づいた。私の様子にルカは「やっとか」と苦笑する。
「ミルはミル自身が思うよりもずっとあの方に大事にされてるんだ。大事じゃなきゃ、怪我をしても手当なんてしないし、手ずから兵法や暗殺術を教え込んだりしないだろ?あの方の性格は十年も一緒にいたあんたが一番よくわかっているはずだ」
そうだ。そうだった。あの人は、自身の感情に忠実でいちいち理由や考えを求めたりするような性格じゃない。ただ自分が楽しければ周りはどうなってもいいと思うような危険な人。
その人がただ気まぐれに私を拾って、ここまで育ててくれた。それだけでも感謝の気持ちでいっぱいだし、恩返しをする為に任務は確実に遂行する。
でも、それだけじゃなかったってこと……?
内心戸惑う私にルカは笑いながら続ける。
「それにな、あんただって年頃の娘なんだ。そんなあんたを毎回毎回抱き上げたりして、生活棟を移動するあたりで……」
「何やら楽しい話をしているな?俺も混ぜてくれないか?」
気がつくと、私の隣にヴァシリーが座っていた。意地の悪い笑みを浮かべてルカを見ているけど、その目は少しも笑っていなかった。
けれど、ルカは……。
「ヴァシリー幹部!ちょうど良かった。今、あんたの話をしていたんだ」
「俺の?」
「ああ!ミルのやつ、幹部に大事にされているっていうことに気づいていなかったみたいでさ。そのことを話していたんだ」
「ほう……」
青い瞳が今度は私を見る。幹部相手に怯まないルカの図太い精神力に関心していたけど、思わぬ流れ弾がこちらへ来た。ルカの発言は善意そのものだと思うけど、流石に今回は彼の天然を恨むところだ。
「そうか。俺はこんなにもミルのことを大事にしていたが……当の本人にそれが伝わっていなかったか」
にこりとこちらを見て微笑むヴァシリーは誰が見ても見惚れるような美しいものだ。
でも、私はいつもこの微笑みを見てはじめはこう思う。
……絶対に悪いことを考えている時の顔だよ。
私はこの後どうやってこの怖い師匠から逃げるか、計略を巡らせることにした。多分、勝てないと思うけど。
ある日の姉弟
とある日の昼下がり。開けていた窓から心地よい風がやって来て、部屋のカーテンを揺らす。
「すっかり涼しくなったね。カーディガンとか羽織ったらちょうどいいくらいだ。ほら、姉さん。見てみて」
向かいに座っていた彼が大きく伸びをして、頬杖をつきながら窓の外の景色を見る。私も釣られて窓の外を見やった。
外は雲一つない青空。夏と比べると幾らか落ち着いた光と温もりの日差しが降り注ぐ。
「姉さん。今度の休み、一緒に散歩に行かない?天気予報だと数日はこんな感じらしいよ」
「別に構わないよ。部屋に籠りきりだと身体に毒だからね」
やった、姉さん大好き、と他の女の子が見たら黄色い歓声をあげるような甘い顔立ちの弟が無邪気な声をあげる。
しかし、私はそんな弟に対して小さく息を吐いた。
「あのねぇ、お前も年頃なんだから彼女の一人でも出来ていてもいい頃じゃない?夏場のプールや海や花火のお誘い、全部断ったって聞いたけど」
「え?僕には必要ないよ」
一刀両断だった。弟は本気で分からないという表情で、私のことを見つめ、無邪気に微笑む。
「僕には姉さんがいたら、それでいいんだ」
恋人を見つめるような甘やかな眼差しで弟は照れたように笑う。私はその様子に再度深く息を吐いた。しかし、彼の頭の中は次の休日のことで頭がいっぱいのようだった。
「散歩だけじゃ味気ないよね。軽食を用意して、ピクニックみたいにしてもいいかも。やっぱりサンドイッチかな?」
「……」
目を輝かせて楽しそうにする弟の姿は小さい頃と変わりない。それでも許してしまうのは、やっぱり弟が可愛いからだろうか。
(……まあ、いいか。楽しそうだし)
私はすっかり温くなったラテを一口飲む。
外は雲一つ無い青空。弟と散歩に向かうその日まで晴れていてほしいと、私は密かに祈った。
悪夢
鉄錆の匂いがする。手に持った錆びたナイフからぽたりぽたりと血が滴る。馬乗りになったその男に息は無かった。
死んだ男は人買い。貧しい家に生まれた俺は、物心つく前に人買いに売られたんだそうだ。だから親のことや自分の名前、出身も何も知らない。
だが、興味は無かった。こいつからの暴力は当たり前だったし、碌に飯も与えられなかったが、怒りを覚えたことはない。あるのは明確な殺意。こいつを殺して自由を得る。その願いを漸く叶えたのだ。
(だが……満たされない)
望み通りの自由を得た。しかし、それも一瞬のことだろう。こういう人買いには俺たち「商品」の情報をやり取りする為の仲間がいる。仲間から連絡がこなければ、奴らは不審に思い、俺はやがて駆けつけたこいつの仲間に殺されるだろう。
(それも、どうでもいい)
「おや、随分と派手に暴れたようだね」
と、そこへやって来たのは一人の男だった。血まみれの俺とは真逆の、髪から衣服まで真っ白な男。神父みたいな風貌をしていた。
「………」
「お前、私の言葉が分かるかい?」
「……分かる」
「なら良かった。そこの男はお前が?」
「ああ」
男は口元に浮かべた笑みをそのままに、俺の方へと足を進める。そして、俺の顎を無遠慮に掴むと無理やり視線を合わせるように上を向かせる。
値踏みをするかのように、じぃっと男はその赤い瞳を俺に向ける。その視線が不快で睨み返すと男は「なるほど」と言って、その手を離した。
「悪くない目だ。仕込んでやれば、まあそれなりに動けるだろうな。お前、名前は?」
「無い。気がついたら、こいつのところにいたから」
「そうか……なら、今日からヴァシリーと名乗れ」
「ヴァシリー……?」
「ああ。名前が無いのは不便だからな。とりあえず、そう名乗るように」
男は淡々と話を進める。そうして、血塗れの俺の首根っこを掴むと軽々と俺のことを持ち上げた。
「っ、離せ……!」
「まずは戻ってから風呂と飯だね。それから武術や学問、色々と教えよう。ヴァシリー」
そいつは口元こそ笑っていたが、俺を見るその目は少しも笑っていなかった。何処を見ても真意の読めない薄気味悪い目。
「私はエミール。これからはお前の親代わりになってやろう」
その日から俺はエミールに対して強い憎しみを抱くようになった。理由は無い。ただただ、こいつの目が気に食わない。それだけだ。
「ヴァシリー」
どうやら寝ていたらしい。寝起きのぼんやりとした頭で、俺は自室にいることを思い出す。ベッドの上で横になった俺の顔をミルが覗き込んでいた。
「……何だ?」
「鍛錬の時間になっても来なかったから、様子を見に来たの。そうしたら魘されていたから、声をかけていたんだよ」
「……」
不快だった。こんな時にあいつの記憶を夢に見るとは。
上体を起こし、ため息を吐き、眉を顰める俺に娘は遠慮がちに聞いてくる。
「具合悪い?」
俺は答えずに娘に向かって両腕を広げた。ミルは素直に俺の腕の中に入り、そのまま膝の上で抱えてやる。
「鍛錬は?」
「変更だ。今から兵法を教えてやろう」
「珍しいね。いつもなら実践の方が早いって言うのに」
「気分が乗らん」
「そっか」
娘は近くに置いていた兵法学の本を手に取り、ページを開く。
「何の夢を見ていたの?」
「さてな。忘れた」
「忘れたってことは、覚えはあるのね」
「覚えていたとしても、教えるほどでもあるまい」
「そう。……ねぇ、この体術ってどうやるの?」
「ああ。それは……」
エミールの記憶は忘れたくても忘れられないだろう。その度に俺は言いようのない苛立ちと殺意を抱く。だが、この娘と共にいる間は、どういうわけかその苛立ちすら消えていく。
(……不思議なものだ)
この時間を悪くないと感じている。以前、こいつが気落ちした時もそうだったが、大体俺の気分を左右させるのは良くも悪くも、この娘が関係していた。
(よく分からんが……)
悪くないと、そう思う俺がいた。