なこさか

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 悪夢



 鉄錆の匂いがする。手に持った錆びたナイフからぽたりぽたりと血が滴る。馬乗りになったその男に息は無かった。
 死んだ男は人買い。貧しい家に生まれた俺は、物心つく前に人買いに売られたんだそうだ。だから親のことや自分の名前、出身も何も知らない。
 だが、興味は無かった。こいつからの暴力は当たり前だったし、碌に飯も与えられなかったが、怒りを覚えたことはない。あるのは明確な殺意。こいつを殺して自由を得る。その願いを漸く叶えたのだ。

 (だが……満たされない)

 望み通りの自由を得た。しかし、それも一瞬のことだろう。こういう人買いには俺たち「商品」の情報をやり取りする為の仲間がいる。仲間から連絡がこなければ、奴らは不審に思い、俺はやがて駆けつけたこいつの仲間に殺されるだろう。

 (それも、どうでもいい)

 「おや、随分と派手に暴れたようだね」

 と、そこへやって来たのは一人の男だった。血まみれの俺とは真逆の、髪から衣服まで真っ白な男。神父みたいな風貌をしていた。

 「………」

 「お前、私の言葉が分かるかい?」

 「……分かる」

 「なら良かった。そこの男はお前が?」

 「ああ」

 男は口元に浮かべた笑みをそのままに、俺の方へと足を進める。そして、俺の顎を無遠慮に掴むと無理やり視線を合わせるように上を向かせる。
 値踏みをするかのように、じぃっと男はその赤い瞳を俺に向ける。その視線が不快で睨み返すと男は「なるほど」と言って、その手を離した。

 「悪くない目だ。仕込んでやれば、まあそれなりに動けるだろうな。お前、名前は?」

 「無い。気がついたら、こいつのところにいたから」

 「そうか……なら、今日からヴァシリーと名乗れ」

 「ヴァシリー……?」

 「ああ。名前が無いのは不便だからな。とりあえず、そう名乗るように」

 男は淡々と話を進める。そうして、血塗れの俺の首根っこを掴むと軽々と俺のことを持ち上げた。

 「っ、離せ……!」

 「まずは戻ってから風呂と飯だね。それから武術や学問、色々と教えよう。ヴァシリー」

 そいつは口元こそ笑っていたが、俺を見るその目は少しも笑っていなかった。何処を見ても真意の読めない薄気味悪い目。

 「私はエミール。これからはお前の親代わりになってやろう」

 その日から俺はエミールに対して強い憎しみを抱くようになった。理由は無い。ただただ、こいつの目が気に食わない。それだけだ。




 「ヴァシリー」

 どうやら寝ていたらしい。寝起きのぼんやりとした頭で、俺は自室にいることを思い出す。ベッドの上で横になった俺の顔をミルが覗き込んでいた。

 「……何だ?」

 「鍛錬の時間になっても来なかったから、様子を見に来たの。そうしたら魘されていたから、声をかけていたんだよ」

 「……」

 不快だった。こんな時にあいつの記憶を夢に見るとは。
 上体を起こし、ため息を吐き、眉を顰める俺に娘は遠慮がちに聞いてくる。

 「具合悪い?」
 
 俺は答えずに娘に向かって両腕を広げた。ミルは素直に俺の腕の中に入り、そのまま膝の上で抱えてやる。

 「鍛錬は?」

 「変更だ。今から兵法を教えてやろう」

 「珍しいね。いつもなら実践の方が早いって言うのに」

 「気分が乗らん」

 「そっか」

 娘は近くに置いていた兵法学の本を手に取り、ページを開く。

 「何の夢を見ていたの?」

 「さてな。忘れた」

 「忘れたってことは、覚えはあるのね」

 「覚えていたとしても、教えるほどでもあるまい」

 「そう。……ねぇ、この体術ってどうやるの?」

 「ああ。それは……」

 エミールの記憶は忘れたくても忘れられないだろう。その度に俺は言いようのない苛立ちと殺意を抱く。だが、この娘と共にいる間は、どういうわけかその苛立ちすら消えていく。

 (……不思議なものだ)

 この時間を悪くないと感じている。以前、こいつが気落ちした時もそうだったが、大体俺の気分を左右させるのは良くも悪くも、この娘が関係していた。

 (よく分からんが……)

 悪くないと、そう思う俺がいた。

10/17/2023, 12:19:33 PM