hashiba

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5/4/2024, 5:45:48 AM

痕をつけられたわけでも、痛めつけられたわけでもない。けれどふとした拍子にそこがぴりぴりと痺れる。これは証明なのだ。本来であればそこには契約の印を嵌めるのだろう。それができずに燻り、歯痒く思っているのはお互い様だったらしい。わざとらしく指先でそこをなぞり、輪を描いて結びつけてきたのが先日のこと。実体を持たず誰からも見えないくせに、時折こうして自分を縛める。児戯のわりにプラセボ程度には効いていた。きっと向こうも同じように、今頃薬指の違和感に悩まされていることだろう。もっともこっちの場合は焦れて腹が立って噛みついたから、普通に痛みで滅入っているかもしれないが。


(題:二人だけの秘密)

5/3/2024, 7:17:28 AM

念願叶って好いた相手と結ばれた。真綿に包んで大切にしたいと思うのは当然のこと。それを「甘やかしすぎ」「もっと厳しくしてもいい」などと、甘やかされている恋人自身が言うのだから困ったものだ。しかも、この状況。無造作にベッドへ体を投げ出し、崩れた衣服も直さずじっと見上げてくる。自分が今どう映っているか、これからどうなるか、きっと全てわかってやっているのだろう。返事の代わりにその身へと乗り上げる。確かに彼の言う通りかもしれない。挑発して組み敷かれてなお楽しげに笑う恋人に、少しお灸を据えなければ。


(題:優しくしないで)

5/2/2024, 4:54:31 AM

三時間前は昼食のカレーが思いのほか辛かったようで渋い顔をしていた。二時間前はリビングで真面目な顔をしながら本を読んでいた。一時間前は外干しの洗濯物についた虫を困り顔で追い払っていた。それから今。時間ごとに色んな表情を見せるあの人は、自室にこもって出てこない。何かおやつでも、と呼びに来たはいいが邪魔をしたら悪い気がする。今何を、どんな顔でしているのだろう。部屋の前で逡巡していたら、いきなり目の前のドアが開いた。そして至近距離で悲鳴が上がった。まさか自分がいるとは思っていなかったらしく、心底驚いた様子でへなへなと肩口に縋りつく。不慮の事故とはいえ、そんな顔をさせる気はなかったので少し申し訳ない。つい笑ってしまったことも含めて、謝りながら撫でて宥める三時過ぎ。


(題:カラフル)

5/1/2024, 8:58:12 AM

帰る家があるから、旅行は嫌いじゃない。以前彼がそう言っていた。そういうものなのか、と妙に感心した記憶がある。やりたいことのために家を捨てた自分にとって、わかるようなわからないような曖昧な感覚だった。今になってこんなことを思い出して、神妙な顔でもしてしまっていただろうか。ランチを終えて店から出たら、帰ろう、と言って珍しく彼から手を引かれた。絡んだ指の先がわずかに冷えている。向いた先は当然のように自分の、自分たちの家がある方角。帰ったら昼寝でもしようか。そんな提案をすれば、少し笑ってから小さく頷いた。


(題:楽園)

4/30/2024, 5:57:40 AM

夕食を用意したから来るように、だそう。特に何も考えず釣られたものの、玄関まであと数メートルほどまで来てふと我に返る。いい歳の男に甲斐甲斐しく世話を焼き、一体何がしたいのか。夕風に紛れて漂う匂いは、少し前に自分が好きだと言った料理のそれ。わかりやすい罠。しかしよくもあんな、ぽろっと呟いたことを覚えているものだ。止まりかけた足が再び動く。このまま何も考えず流されて、痛い目を見るならそれでもいいか。掴まれた胃袋も腹の中で頷く。ここまで入れ込むつもりはなかったのに、とぼやく脳を無視して玄関のチャイムを鳴らした。


(題:風に乗って)

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