念願叶って好いた相手と結ばれた。真綿に包んで大切にしたいと思うのは当然のこと。それを「甘やかしすぎ」「もっと厳しくしてもいい」などと、甘やかされている恋人自身が言うのだから困ったものだ。しかも、この状況。無造作にベッドへ体を投げ出し、崩れた衣服も直さずじっと見上げてくる。自分が今どう映っているか、これからどうなるか、きっと全てわかってやっているのだろう。返事の代わりにその身へと乗り上げる。確かに彼の言う通りかもしれない。挑発して組み敷かれてなお楽しげに笑う恋人に、少しお灸を据えなければ。
(題:優しくしないで)
三時間前は昼食のカレーが思いのほか辛かったようで渋い顔をしていた。二時間前はリビングで真面目な顔をしながら本を読んでいた。一時間前は外干しの洗濯物についた虫を困り顔で追い払っていた。それから今。時間ごとに色んな表情を見せるあの人は、自室にこもって出てこない。何かおやつでも、と呼びに来たはいいが邪魔をしたら悪い気がする。今何を、どんな顔でしているのだろう。部屋の前で逡巡していたら、いきなり目の前のドアが開いた。そして至近距離で悲鳴が上がった。まさか自分がいるとは思っていなかったらしく、心底驚いた様子でへなへなと肩口に縋りつく。不慮の事故とはいえ、そんな顔をさせる気はなかったので少し申し訳ない。つい笑ってしまったことも含めて、謝りながら撫でて宥める三時過ぎ。
(題:カラフル)
帰る家があるから、旅行は嫌いじゃない。以前彼がそう言っていた。そういうものなのか、と妙に感心した記憶がある。やりたいことのために家を捨てた自分にとって、わかるようなわからないような曖昧な感覚だった。今になってこんなことを思い出して、神妙な顔でもしてしまっていただろうか。ランチを終えて店から出たら、帰ろう、と言って珍しく彼から手を引かれた。絡んだ指の先がわずかに冷えている。向いた先は当然のように自分の、自分たちの家がある方角。帰ったら昼寝でもしようか。そんな提案をすれば、少し笑ってから小さく頷いた。
(題:楽園)
夕食を用意したから来るように、だそう。特に何も考えず釣られたものの、玄関まであと数メートルほどまで来てふと我に返る。いい歳の男に甲斐甲斐しく世話を焼き、一体何がしたいのか。夕風に紛れて漂う匂いは、少し前に自分が好きだと言った料理のそれ。わかりやすい罠。しかしよくもあんな、ぽろっと呟いたことを覚えているものだ。止まりかけた足が再び動く。このまま何も考えず流されて、痛い目を見るならそれでもいいか。掴まれた胃袋も腹の中で頷く。ここまで入れ込むつもりはなかったのに、とぼやく脳を無視して玄関のチャイムを鳴らした。
(題:風に乗って)
この人生はおそらく折り返し地点か、既にそこも越えているか。今更過去のたらればを考えても仕方がない。それでも、もしあのとき違う道を選んでいたら。少しだけ考え、そして戯言のように口にしてしまった。どういうことか、もしかすると見間違いかもしれない。隣でぼんやり聞いていた彼の唇が、ほんの一瞬泣きそうに歪んだ気がしたのだ。折り返し地点で出会った恋人。全ての選択を一つでも違えれば存在しなかった世界。しまったな、と反省しながらその体を両腕で抱き寄せる。たとえどこで何をしていようとも、またあなたを見つけ出すので。戯言に譫言を被せて、最後に出会った大切な人に言い聞かせた。
(題:刹那)