彼は誰よりも自由で強い人だ。彼と時間を共にし言葉を交わすときは、いつも薄氷の上を歩くような気持ちだった。踏み違えて割れてしまえば海の底から地球の裏側まで落下し、手の届かぬ場所で一人何事もなかったかのように暮らし始める。彼はそんな人だった。だからこの家で初めて「ただいま」と言ってくれた日にはもう、玄関先なのにみっともなく泣くしかなかったのだ。
(題:遠くの空へ)
些細なことで心が動く。心が動くと涙が出る。感受性がやたらと高いこの人のそんな性質にもとっくに慣れた。ひとしきり泣いた後は決まって、すみません、と謝る。この人もいい大人だ。突然泣いてしまったら確かに謝る他ないだろう。しかし、こっちはどうだ。よく回るはずのその口が、肝心なときばかり言葉を詰まらせ嗚咽を漏らす。そんな姿が嫌いどころか好ましく感じるのだから最悪だ。こっちもいい大人なのに。醜い部分を知られたくなくて、今日も泣くこの人の隣でただただ黙っているしかできなかった。
(題:言葉にできない)
屋台のイカ焼きをそんなに綺麗に食べれる人、初めて見た。思ったままの感想を伝えると、残った串とトレイをビニール袋に仕舞いながら「そう?」と小首を傾げた。桜の開花を言い訳にして現れた屋台。釣られた彼はわかりやすく花より団子。それでもこちらから手を差し出せば、空いた方の手で繋いでくれるのだからちょっとたまらない。彼も少しは満開の桜に浮かれているのだろうか。攫われないようにちゃんと掴まっていて、なんて戯れを言いながら並木道をゆっくり下っていく。
(題:春爛漫)
離したくないならそう誓えばいい、なんて身も蓋ないことをうっかり口にしそうになる。そんなこと、できたら今頃とっくにしていただろう。できないからこの人も不安なのだ。抱き込んだまま動かないその背中に手を触れる。たった一人のためにこんなふうに思い悩んで、随分と生真面目なことだ。思われる側として何か一つ、報いた方がいいのだろう。耳元に顔を寄せる。せめてこの次が確かにあるように、こちらから誓いを立てた。
(題:誰よりも、ずっと)
人生を一日で例えたら、今は何時頃だろうか。ソファに寝転がったまま、彼はふとそんなことを尋ねた。二人していい歳だ。寿命から考えればおおよそ折り返し地点か、そこも既に過ぎてしまったか。仮に朝を一日の始まりとすれば、そろそろ夜になるくらいかもしれない。そう答えたら「長いな、夜」とボソリと呟いた。それは、そうだ。今は電気があるから余計にね、と例え話をしながら彼の元へと歩み寄る。残り短くて長い夜を、こうして一緒に過ごしてくれるか確かめるために。
(題:これからも、ずっと)