1929年を生き、死んだ
狂人が見た夜明けの空を
明朝の私もまた、見上げるのだろう
木曽路はすべて山の中である
であれば、私はどうだろう
我が身体はすべて文明の中である、だろうか
愚かしい! 響く哄笑の虚しさよ
かの狂人は狂人であったが
生まれながらの狂人などではなかった
私はどうだ、どうなのだ?
私が私である自信はどこだ?
私が狂人でない確証はどこだ?
愚かしい! 響く哄笑の虚ろさよ
私は狂人なのか、そうでないのか
我が身体はすべて文明の中である
明朝の私に、夜明けは訪れてくれるのか
身を焼くような
胸を焦がすような
心を締め付けるような
それでいて多幸感に包まれるような
そんな一見美しい衝動を、人は
本気の恋と呼ぶらしい
であれば私は
本気の恋はしたくない
私が私でなくなるその感情を
味わいたいとは思わない
その感情は美しいか?
奇跡か?大切か?ありふれているか?
私は嫌いだ 本気の恋というものが
かつて私を傷つけたその刃を
己が手に持つなどあり得ない
私に向けられたその感情に
不快以外、なんと名を付ければいい?
恋とはなんだ、その激情はなんだ
その目はなんだ、言葉はなんだ
お前にとって私とはなんだ
その衝動を向けるに足るものか
私は嫌いだ 本気の恋というものが
私を切ったその刃が ただただ恨めしいのだから
そっとカレンダーを捲くる
なにもない。なにもない。
白紙のカレンダーを眺める
なにもない。なにもない。
そこにあるのは、なんだろう
可能性だろうか、いいや、違う
そこにはなにもない
空虚。空虚だ。
私という生き物が
そう遠くない未来に味わう空虚が
首をもたげている
けれどもそこにはなにもない。
指の隙間からさらさらと、
こぼれ落ちる、こぼれ落ちる。
その白い砂の正体はなんだろう。
過去、すなわち記憶だろうか?
未来、あるいは可能性だろうか?
唇の隙間からさらさらと、
こぼれ落ちる、こぼれ落ちる。
その黒い砂の正体なんだろう。
信頼、すなわち友人だろうか?
虚構、あるいは虚栄心だろうか?
こぼれ落ちる、こぼれ落ちる。
我が肉体を形作っていた砂が。
ああ、これこそが喪失。
我が肉体の崩れ去っていく感覚。
戻らぬ過去と記憶を思えば
ああ、日記を捲れど虚しい。
来たる未来と可能性を思えば
ああ、夢見る夜さえ苦しい。
失った信頼を、友人を思えば
ああ、声を放つ喉さえ恨めしい。
私を支えるものが虚構と虚栄心だけと思えば
ああ、自分という存在はなんと愚かしい。
ああ、この喪失感! 偉大なる喪失感!
私から失われた一切は、
この感情によって我が身に迫る。
私を切り裂く後悔と共に、
我が身を痛めつける喪失よ。
これを偉大と言わずなんという?
ああ、喪失感よ! 願いがあります。
私から、もう何も奪わないで。
私のためだけの地図
私のためだけのコンパス
私のためだけの聖書
私のためだけの
私を導くためだけの
世界に一つだけのものがほしい
私は何をなせばいいのか
私は誰なのか
私にはわからない
分かれ道を目の前にしたとき
呆然と立ち尽くすことのないように
決断を迫られたとき
口をつぐむことのないように
世界に一つだけの
私というたったひとりの
確固たる意志がほしい