入道雲
天気予報のカレンダーに青い傘が連なっている。
そういえばもう梅雨の時期に入ったのだった。
勘弁してくれ。
もう布団を洗濯機に回しているというのに。
老婆心から窓の外を見ると、なみなみと沖を行く漁船のように、入道雲が呑気な顔をして、姿を現していたのだった。
夏
6月生まれの俺は夏が好きだった。
だが今では、それも「子供の頃までは」というダサい蛇足付きになっているけれども。
別に汗かきでも暑がりでもない自分には、世間の人々がなぜ夏を嫌うのかがよくわからなかったのだが、一人暮らしを始めて、ようやくその理由がわかった。
虫だ。害虫だ。夏の悪夢はあいつらなくしては始まらない。絶対始まってほしいないのだが。
白状しよう。
俺は害虫駆除業者に85000円を取られたことがある。
自分で呼んでおいて「取られた」という言い方をしちゃダメなのかもしれないが、それにしても85000円は流石にぼったくりだ。
せめてふんだくられたと言わせてもらう。
夜の11時、白い壁を伝って部屋を闊歩していたゴキブリくんのことを俺は一生忘れない。
彼らがあの世に持っていった9札の諭吉のことも俺は忘れない。
自分の手中を離れた彼らのことを思いながら、次に出てきた時には、万難を排してでも自分一人で立ち向かおうと誓った俺だった。
ここではないどこか
寝落ちしがちな最近、変な時間に目を覚ますことが多い。
真っ暗な窓の外にふっと目をやる。
ちょっとぼうっとしているだけで、つい物思いに耽ってしまう。
仲間たちの笑い声。
頬の赤い彼女の顔。
家族の温もり。
俺はなんて恵まれた世界を生きているんだろう。
しかし、やはりこの時間帯は、感傷的になりやすくて困る。
それに対する感謝の傍ら、底なしに悲しい気持ちも込み上げてくるからだ。
どこかの本に、人生は手放しの連続だと書かれていた。
歳をとり、特定のフェーズに入れば最後、それまで得てきたものをどんどん失っていく辛い旅路が待ち受けているのだと。
俺の愛したすべてのものが、これからは失われていく。
いっぱいいっぱいに満たされ、膨らみ上がった心は、穴を開けられた風船のように、徐々に貧相なものに成り果てていく。
だから俺は、「それは嫌だ、そんなはずがない」と首を横に振って見せる。
藁にもすがる思いで、切に願い、信じて疑わない。
ここではないどこかに、永遠の幸せがあることを。
ここではないどこかに、永劫の情愛があることを。
君と最後に会った日
君と最後に会った日を、僕は正直なところちゃんと覚えているわけではない。
おそらく卒業式の日だったっけ。
何せ高校を卒業したら、それ以上交流する気は、僕には全くといっていいほどなかったのだから。
昔からの悪いくせで、僕は誰にでもいい顔をしたがる。
君はずっと一人だった。
周りのクラスメイトたちとはどうにも肌が合わず、常に浮いているといった感が否めなかった。
それでも君は、毎日彼らに微笑みかけていた。
僕はそんな君につい同情してしまったんだろう。
僕の生半可な優しさのせいで、つまらない関係が数ヶ月も続いて。
いい加減うんざりしてきた時期に、卒業式がやってきた。フェードアウトするにはちょうどいい。
それからもう2年が経つ。
ときどき、君のことを思い出すこともある。
「今ごろ、何して過ごしてるのかな」って。
しかし、その回想に感情は微塵も込められていない。
君のおかげで、僕という人間の罪深さがわかったよ。
自分でいうには歯が浮きそうな台詞だけれど。
もう忘れてもいいと思う。
折に触れて「元気してる?」とLINEを渡してくれているけど、僕がそれに対してまじめに答えた試しはないし、これからもないと思うからね。
さようなら。
いずれ僕より優しい人に出会えるといいね。
繊細な花
教養の乏しい自分に、もちろん花の知識という高尚なもの備わっていない。
だからこのテーマを目にした時は、「もう手詰まりだな」と思ってしまったものだ。
それでも自分の人生において、花が持つ意味合いはどのようなものかと、熱心に頭を巡らせてみた。
すると、自然と一人の女性の姿が、脳内に浮かび上がってきたのだ。
それは彼女、つまりはガールフレンドのことである。
あらかじめ言っておくが別に惚気たいわけではない。
本名こそ言えないけれど、俺は彼女の名前に冠する「花」という漢字から、両者を結びつけたのだ。
俺は人の名前に「花」が入るとよくないということを、名前に「花」の入っている彼女から聞いて知った。
「花はいずれ枯れるから」と、彼女は淡々と話していた─「私は好きなんだけどね、自分の名前」と付け加えるのも忘れずに。
取扱注意の繊細な花。
うっかり枯れてしまわないように、これからも細心の注意が求められることだろう。