両親はほとんど家にいない。
お母さんは帰ってこない。お父さんは仕事で家を空ける。
子供の頃はお父さんを信じていた。でも、今は真実を知っている。シングルマザーのお友達と、ファミレスで何を思いながら食事を摂るのか。実の娘を放置して、他人の子供に何を思うのか。
わたしはお父さんとファミレスに行ったことなどない。
どうして。そればかりが頭を駆け巡った。大学生になった今、ようやく一つの答えにたどり着いたのだ。
お父さんがほしいのは子供じゃない。家庭を守ってくれる『妻』が必要なのだ。
お父さんの親友であるオジサンが、いつもわたしに言っていた。
「帰ってこないお母さんを、待っているだけではダメだ。お父さんが外で働く間、君が家を支えるんだよ」
この言葉は正しいと思う。二人きりの家族なんだから、手を取り合って生きていかなきゃ。
料理もオジサンに教わった。お父さんの好みだって把握している。あたたかい家庭を築くための努力が、実ったことは一度もない。
いつもわたしの傍にいるのは、お父さんではなくオジサンだった。
今日もわたしはオジサンの家に帰宅した。
「おかえり」
柔らかい笑顔でわたしを迎えてくれるオジサンは、太陽のようにあたたかい人だ。
良好な家族関係に憧れているのは、お父さんだけじゃない。わたしだって、笑顔で出迎えられたいのだ。食卓に並んだ料理を頬張りたい。作る側じゃなくて、食べる側になりたい。家族の帰りを待つのではなく、家族に帰りを待たれたい。
贅沢を言っているのかもしれない。だけど、一年のうちの一度くらい、お父さんが待つ側になってもいいじゃないか。
「今日はビーフシチューだよ。ワインが合いそうだね」
オジサンはそう言って、ワイングラスに葡萄ジュースを注ぐ。前はロックグラスに麦茶を注いでいた。
お酒を飲んだ気になりたいのだろう。お父さんと同い年なのに、子供みたいなことをする。
「ねえ。わたし、もうお酒飲める年齢だよ」
「知ってるよ」
「だったら、ワイン入れようよ。お父さんに出してるやつがあるでしょ」
「それはできない」
オジサンは眉尻を下げて言った。寂しそう。いや、悲しそう?
表情からは真意が読めない。わたしは言葉を続けた。
「子供扱いしてるんだ?」
「違うよ。お酒は人の判断を鈍らせる。大切な人と過ごすときは、特に飲みたくない」
「わたしはオジサンの大切な人ってこと?」
「そうだよ」
真っ直ぐに見つめられて、悪い気はしなかった。子供扱いでもいいや。そんな気さえする。
「君はもう大人だから、ちゃんと話しておかないとね」
オジサンは姿勢を正して、深呼吸をした。そして、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「本来なら、ここへはもう来ないように言うべきだが、俺はこれからも君と良き友人でいたい。だから、俺が君の前でお酒を飲むことはないし、君にお酒を出すこともない」
オジサンの話を聞きながら、お母さんのことを思い出した。お母さんは、男友達にお酒を飲ませていた。きっと判断を鈍らせるためだろう。一夜の過ちを意図的に作ったんだ。心で繋がるよりも、早く繋がれるから。
オジサンはお母さんと同じ手は使わない。わたしのことを、わたし以上に大切に思ってくれる。
わたしもオジサンとは良き友人でいたい。
「でも、ワイングラスで葡萄ジュースを飲むのはやめるよ。かっこわるいもんね」
オジサンは名残惜しそうにワイングラスをくるくると回した。中身はジュースでも、その仕草はかっこいい。真実を言わなければ、ワインを嗜む紳士にしか見えない。
「そんなことないよ。こんなにかっこよくジュースを飲める人、オジサンしか知らない」
「ふふ。おだてても何も出ないぞ」
オジサンは満足そうに微笑んだ。その頬はほんのり赤い。まるで、お酒に酔ったみたいに。
食卓に置かれているのは温かいご飯ではなく、シワのない千円札が二枚。毎日必ず置いてあった。
父と母は二人きりで外食をするのが好きだった。二人だけの世界をいつまでも大切にしていて、そこにボクが入る隙などない。
両親にどんなに嫌気がさしても、ボクには家を飛び出す理由がなかった。ボクがいない間に両親が帰ったらと思うと、その場を離れたくなかった。
ボクの孤独に気づくことなく、両親は寿命を終えた。時を同じくして、親友が進学を理由に地元を離れると言った。
幼馴染みが親友の引っ越し先をしつこく聞いてきたから、教える代わりに幼馴染みと一夜を共にした。
親友を売ったバチが当たったのだろう。生まれてきた娘は、ボクではなく親友に懐いている。
幼馴染みは母親としての責任を放棄して、好き勝手に遊び歩いている。だが、離婚という選択肢はない。幼馴染みが、いや、妻が……帰ってくるかもしれないから。
ボクはいつまで家族を待ち続ければいいのだろうか。
ボクを待っていてくれる人はどこにいるのだろうか。
孤独が支配する頭で考えた結果、この年で家出を決行した。親友と娘には、ちゃんと置き手紙を残す。
『君たちはとても仲良しだね。ボクは蚊帳の外で少し寂しい。だから実家に帰らせていただきます』
スマホを片手に漢字を調べながら、紙の上にミミズのような文字を走らせた。それだけで虚しさが込み上げてくる。
親友と娘がクリスマスケーキを買いに出た少し後、ボクも家を出た。
食卓に紙切れを残し家を後にする。ボクの両親がやったことと同じ。だけど、気持ちは全然違うのだろう。
寒さで水溜まりが凍るように、ボクの心も凍りついている。凍てつく鏡に両親を映して、娘に同じ孤独を味あわせている。
両親から悪い子育てを学んだ。自分のしていることが間違いだとわかる。だけど、正解がわからない。どうしたらいいんだ。
誰か、ボクの凍てつく鏡に正しい子育てを映してくれないか。
しんしんと雪が降る寒い夜。視界の先で白がヒラヒラと舞いながら景色に溶けた。
「随分と積もったなぁ」
そう呟く俺の手を少女がぎゅっと握る。子供のわりに大人以上におとなしい。この子は雪に見向きもしない。
もし俺が今、一人だったら。確実に積もる雪を踏み荒らして、縦横無尽に足跡をつけていただろう。
「お父さんのおうち、まだ?」
少女が俺に尋ねる。
お父さんのおうち……もとい、親友の実家に向かっている。この子にとって初めて訪れる地だから、ゴールが見えないのが不安なのだろう。
お父さんのおうちには、まだ辿り着かないかどうか。答えは「まだまだ先」だ。
街灯が少ない田舎町。同じような景色が続く。刺激が寒さしかないのでは、退屈にもなろう。
「お父さんのおうちはね、この町の一番高い場所にあるんだ。まだまだ先だよ」
「そっかぁ」
少女は暗い声を出す。俺だって、本音では行きたくない。長い長い坂を上るだけでもキツいのに、雪道を歩かないといけない。
事の発端は、親友の家出だ。理由は俺とこの子の仲が良すぎるから。蚊帳の外で寂しいそうだ。いくつになっても子供じみたことをする。しかも、家出と言いながら、行き先はしっかりと伝えてるし。構ってほしいなら素直に言えばいい。
俺たちに非がないだけに、迎えに行かずに帰りたくなってきた。
「ねぇ」
「なに?」
「雪だるま作ろうか」
「お父さんが待ってるよ」
「待たせておけばいいよ」
少女の返事も聞かず、俺は雪を集める。無心で雪を丸めていると、少しだけ寒さが遠退いていく気がした。
辺りに枝や石は落ちておらず、のっぺらぼうな雪だるまが完成した。
「お顔はないの?」
「朝まで残ってれば、誰かが顔を作ってくれるかもね」
「そっか」
少女が寒そうに腕を擦った。遊んでないで先に進むべきだった。
俺が雪だるまを作る間、手伝うでもなく、ただ見ているだけだった。体を動かして少し温かくなったのは俺だけ。「一緒に」と声をかければ、やってくれたかもしれない。
控えめなのか、他人に無関心なのか、一匹狼なのか。よくわからない子だと思う。学校でも同じように、ただ周りの子を見ているだけなのだろうか。友達はいないらしいし、少しばかり心配になる。
「行こうか」
少女は再び俺の手をぎゅっと握った。
どうすれば少女は笑ってくれるのだろうか。子供――まして異性の扱いに慣れない俺が、何をできるわけでもなく。
「ここはオジサンの故郷なんだよね」
「うん。俺だけじゃなくて、君のお父さんとお母さんの故郷でもあるよ」
「この町は夜でも少し明るいね」
「それは雪が降ってるからだよ」
「雪が降ると明るくなるの?」
「うん。雪が光を反射するから、ぼんやりだけど明るく見えるんだよ」
「そうなんだ。綺麗だね!」
幻想的な景色を見て、少女は嬉しそうに言った。その笑顔は雪明かりの夜に映える。
この笑顔を見るために、今夜があるのかもしれない。そう思うと、親友の家出も許せる気がした。
「オジサンに質問」
右腕をピンと挙げて、親友の娘が言う。
「何かな?」
「凍てつく星空って何?」
明確な答えがすぐに出てこず、俺は言葉をつまらせた。
季語に『凍星』がある。解釈が雑でいいなら、凍てつく星空で意味も合ってる。
「冬の星空のことだと思う」
「星空って凍るの?」
真っ直ぐな目で疑問を口にするこの子に、望む答えを与えたい。しかし、あまりにも問いが難しい。結論から言えば、星空は凍らない。
「とりあえず、外に出てみようか」
星は凍らないが、物質は凍る。そんな難しい話をしても仕方がない。物理学の話を始めたら、それこそ『星空は凍るのか』という問いから脱線してしまう。
大気が凍るから、星がより輝いて見えるんだ。と、体験してもらえたら、説明は十分じゃないか。
文学的に話したほうが、きっとわかりやすい。
娘に防寒対策を施す。といっても、もこもこした服を着せただけだが。帽子に耳当て、手袋も忘れてない。裏起毛のズボンも履かせた。準備万端だ。
玄関を開けるなり、娘が身を縮める。
「うー、寒いねー」
「うん」
即答で同意するほど寒い。近所の丘に行こうと考えていたが、庭でもいいだろうか。空が見えれば、どこでもいいよな。
「庭で話をしよう」
「うん」
濡縁に腰かける。
将来に想いを馳せて建てた家だ。しかし、まだ見ぬ妻が世話をする予定の花壇もなければ、いつしか授かるであろう我が子が可愛がるはずの犬もいない。俺の目にしか映らない幻想だけが、この庭に広がっている。
ただ広々としているだけの庭から、空へと視線を移した。
「空を見てごらん。星が凍るように輝いている」
「星さんは寒さで凍っちゃったの?」
「星は凍らないよ。ものすごく温度が高い……と言えばいいのかな?」
子供に説明するって難しい。あまり詳しく言っても伝わらないし、雑な説明は語弊がある。
あくまで文学的に話したいのに、この子の質問がロマンより現実を求めている。
一旦、話題を反らそう。
「夢を見たいのか、現実を見たいのか。君はどっちかな?」
「夢を見るには現実を知ってなきゃ。現実を見るときも、心には夢を抱いている方がいいんだよ。どちらか一つだけを見てると、人の心は迷っちゃうんだって」
「ほう」
この子は本当に小学生か? もしかして、今時の五年生って、友達とこんな話する? 俺が同じ年の頃は、アニメや漫画の話をしたり、ゲームの攻略を話し合っていたけどな。総じて、見たいものしか見ていなかった。
大人になった今も、それは変わらないかもしれない。
参ったな。この子にはいつも現実を見せられる。先の質問も、半端な回答じゃ通用しない気がしてきた。
「凍てつく星空が何かってことだけど、オジサンは上手に答えられない。ごめん」
「どうしてオジサンが謝るの? こうやって星を一緒に見てくれるだけで嬉しいよ」
二人で同じものを見て、感じたことを話す。それだけで、十分なんだ。
目の前の小さな幸せから目を反らし、高すぎる理想を追うなど、贅沢だった。
新たな気付きをくれたこの子への、感謝の言葉を探す。そのうちに、喉の奥から短歌めいた調べが滑り出た。
「現実は 夢の中より 温かく 涙に溶ける 凍りし星よ」
「ん? なに、なに? 今のどういう意味?」
「オジサンも君と星を見れて嬉しい。そう言ったんだよ」
「そうなんだ」
「さて、今夜は冷える。そろそろ家に入ろう」
「また、一緒に星を見ようね」
「うん」
体はすっかり冷えてしまったが、心だけはポカポカしている。
お父さんは夜に仕事をしている。わたしが学校へ行っている間は眠る。学校から帰る頃には、仕事へ行く支度をしている。親子の会話などほとんどない。
それでもどうにかコミュニケーションをとるために、お父さんの親友の提案で、交換日記を用意した。数十冊にまで増えたノートを眺めて、少しだけ悲しい気持ちになる。
お父さんはそんなに字が綺麗じゃない。ギリギリ読める程度。対して、交換日記に書かれた字は達筆。つまり、お父さんではない別の誰かが書き記しているのだ。そんなの一人しかいないけど、気づかないふりをしている。
思い出を振り返るように、昨日のページを開いた。
『十一月三十日。男は仕事から帰宅するなり、交換日記を開く。眠気で重くなる目蓋を懸命に開いた。そこに書かれた文章を脳に焼き付けるように、一文字ずつ大切に目を通す。ノートに書かれている娘の学校生活は、至って平凡なものだ。しかし、男には毎日が輝いているように見える。娘の生きる日々が、男にはかけがえのないものだから。男は娘に思う。お前の紡ぐ人生が、幸せな方へ進むことを祈る、と。』
お父さんはこんな書き方をしないと思う。それ以前に、面倒臭がって文字を書かない。きっと、親切な誰かさんが、お父さんの様子を書き記している。そうだと思いたい。
わたしは続きにこう書いた。
『男は交換日記を読み、娘の幸せを思う。しかし、何故だろう。決して娘と会話しようとしないのだ。娘はずっと不安に思っていた。お父さんはわたしのことが嫌いなのか、と。そして、いつしかこう考えるようになった。お父さんが勤めるお店に行って、ちゃんとお金を払ったら、わたしともお話ししてくれる?』
ちょっとだけ本音を交えた。この続きがどうなるのか、少しばかり不安だ。ページを捲るのが怖い。
震える手でページを捲ると、既に続きが書き記されていた。今日の分だ。
『十二月一日。男は娘の本心を知る。しかし、娘が父と会話するために金銭を支払うのはおかしい。店に行かずとも、家で話せばよいのだ。私が娘に寂しい思いをさせたのだと、男は悔い改める。娘に挨拶をする。それだけでも、コミュニケーションはとれるはず。男は自分に言い聞かせるように呟いた。大丈夫。ちゃんと愛情は伝わる。』
お父さんの懺悔と共に、店には行くなと書かれている。それはそうだ。ホストクラブは、未成年が入れる場所じゃない。仮に入れる年齢になっても、お父さんから『父親』を差し引いた『男』の姿を見たくない。
今、お父さんは仕事へ行く支度をしている。鏡の前で「今日も世界一かっこいいな」と、自画自賛。毎日のルーティンのようだ。
わたしの視線に気づいたお父さんが、ゆっくりと近づいてくる。
「帰ってたのか」
「うん。ただいま」
「おかえり。父さんは今から仕事に行くけど」
「いってらっしゃい」
わたしの頭をくしゃっと撫でて、お父さんは家をあとにした。撫でられたところが少しあたたかい。
交換日記で少しずつ紡いだ物語が、現実になろうとしている。今日はどんな続きを書こうかな?