空虚。
空の虚ろと書いて、「なにもない」と言う。
でもその言葉は本当にその通りで、確かに空には何も無い。
溜め息を吐きたくなるほどの青も、人の虹彩によって作られた幻のようなものだ。
そこに実際に青が溜め込まれているわけではない。
虚しいと思う。
空を見ると心がひどく切なくなって、呼吸がしにくくなってしまう感覚を覚える。
太陽の儚い眩しさが、もくもくと伸びる雲の白さが、俺に訴えかけ、ひとつの記憶をカセットテープのように巻き戻して再生するのだ。
なあ、全てがお前のせいだよ。
篤司。
篤司は俺の……なんだったのだろうか。
中学からの知り合いは幼馴染と言うべきか。
一度も二人きりで遊んだことがないのに友人と言うべきか。
分からない。
ただまだあどけない中学二年生のたった一年間、俺たちは同級生として同じ教室にいた。
篤司は俺の前の席に座っていて、周りに溶け込まないかのように熱心に授業を聞いていた。
真面目な奴だった。
それこそクラスの委員長を引き受けるような積極性はないが、黒板から振り返った先生がたじろぐほど、じっと真っ直ぐにその目を前へ向けていたのが印象的だ。
そして、俺はそれを面白いと思った。
俺は決して模範的な生徒ではなかった。
「1秒で恋してさ、次の1秒で失恋したんだよ。」
相変わらず不憫な恋愛してるな、と目の前の友人を哀れに思った。
「ちなみに今回は誰を好きになったん?」
「お前の彼女。」
仰け反って笑いを堪えたら後ろの壁に激突した。
痛いが、そんなこと思ってられないくらいに面白い。
「笑うなよ!」
「いや、本当に可哀想な奴だなって。」
初恋の人は写真だけ見せてもらった叔父の元カノだって聞いた。
好きになった俳優は無期限活動休止中だし、漫画内の気に入ったキャラはことごとく死んでいく。
こいつはそういう奴なのだ。
愛してもその愛が報われない、なんて言えば聞こえはいいものの、実体はただの恋愛運のない一般男子高校生。
しかしそっちの肩書きのほうが口に出してみた時、より哀愁を感じるから気に入っている。
「別れ話でも上がったらさ、報告してよ。」
「どうだろ。雅子ちゃんってば俺にメロメロだからな。」
「惚気やめて。消えたくなる。」
「オオトリさあん、灼熱地獄からまた工事の依頼来てますよぉ。」
「はあ?クラゲのやつ、手抜きしやがったな。」
まったく梅雨はこれだから、オオトリはため息をついた。
仕事が多いのは嬉しい限りだが、同じ場所からこう何度も依頼されると創業650周年を迎えたカムラ工務店の名が泣いてしまう。
重い腰を上げてオオトリは手入れしたばかりの工具箱を片手に取った。
「コジカ、仕事だぞ。」
「おいっす。」
2人は事務所を出て灼熱地獄へと続く通路を渡った。
地獄整備。
それは地獄が形を成した時からある重要な仕事だ。
特にここ100年では地獄の先々で業務の効率化が図られ、需要が急増している。
針山地獄のメンテ、血の池地獄の温度管理、その他諸々。
不具合があればとりあえず工務店へ、獄卒なら誰もが知っている合言葉のようなもの。
そしてこの梅雨の時期に多いのは、天井の雨漏り。
空のない地獄に基本雨は降らないのだが、天国の雨量が多いと下のこちらへと水が漏れ出してしまうことがある。
厄介なものだ。
あちらの雨とはいわゆる恵みを象徴し、一滴だとしても触れさえすれば極上の快楽を感じてしまう。
罰を受ける罪人にとってあってはならないことだろう。
そんな訳で天井の雨漏りを修復するのも、地獄整備業の重要な仕事の1つだった。
「はやく梅雨とか終わらねぇかな……。」
「えー、俺はこの時期結構好きっすよぉ。じめじめしてるとテンション上がるじゃないですか。」
「俺はもうそういう機微に感情を上下させる年じゃないんだよ。」
コジカはそう言ってカラカラと笑った。
彼はカムラ工務店の新人業務員だ。
少し前まではオオトリ1人で切り盛りしていたが、需要に呼応して仕事が格段に増えたことで新しく人手を雇うほかなかった。
若くケアレスミスの多さは気になるものの吸収力は高く愛想がいい。
同時期に雇ったクラゲも彼の快活さを見習ってほしい、とは常々思っている。
「」
〈オオトリ〉
カムラ工務店の店長。祖父の時代から続く老舗の工務店を引き継いでおり、その技術は地獄でもトップクラス。それでも最近まで1人で店を切り盛りしていたのは人付き合いが下手だから。完全な職人気質で自分の世界に入り込みやすく、あまり教えることが上手くない。
〈コジカ〉
カムラ工務店の業務員。実家が新しい地獄整備の会社で老舗のカムラ工務店から技術を盗むためにやってきた。なおこのことは全てオオトリにバレている。溌剌とした若者らしい若者で様々なものに目移りしやすい。根本的に少し抜けているが物事を論理で判断する冷静さを併せ持ち、多くの場合根拠に基づいて行動できる。
〈クラゲ〉
カムラ工務店の業務員。よく手抜きするので怒られる。
「やっほー、先輩。」
今日も昨日と同じように羽柴は美術室へやってきた。
しかしいつもと違うことがひとつある。
常に片割れとしてくっついている黒柳がそこにおらず、いつもの圧倒される感覚が弱い。
以前として鬱陶しいとは思うが。
「黒柳は?」
「風邪でお休み〜。」
「珍しいな。」
彼の快活な印象とはかけ離れて見えた。
「やっぱりこの時期に半袖で登校するのは無理があったみたい。」
透明なカゴの中に入っている。
透明なので触れも感じもできないが、そこには確かに境界線がある。
世界はそれで覆われている。
なんのため?
……。
「なんの為だと思う?」
「知らんです。」
無関心そうに朔真はコーヒーを啜った。
「んー……どうしてあるんだろう。」
クルクルと椅子を回転させ、もうお手上げだと言わんばかりに未来は手を上げた。
彼は新しい短編小説に向けて執筆作業に勤しんでいる。
さっそく数行を書いてみたが、どうにもしっくりこないようで、昨日今日のようにこちらの部屋へやってくる朔真に尋ねてみた。
しかし朔真その話題にそれほど興味がない。
完全に行き詰まったと、未来はため息をついた。
「透明なカゴ……そんなのないんじゃないの。」
「いやあるよ。」