海の底
海の底で物言わぬ貝になりたい。
これはいつも想うことだ。
思ったことを口にしてしまうことで、何人もの人、その人の大事なものまで傷付けてしまった。
その度に「海の底で物言わぬ貝になりたい」と想うのだ。
海の底は暗いかもしれない。でも、見上げれば光の差す水面が見えるかもしれない。光を反射する魚達は、さぞ綺麗だろうな…。
最近は、言葉の遣い方を間違えて、誰かを傷付けるくらいなら、話さないほうがいい。話して、誰かを怒らせて、自分の中の何かが壊れる音を聴くのは苦しい。
そう想って、話すのを控えて生活するようになった。大事な人との衝突は減ったが、会話と言えるような会話もなくなるようになった。
ある時限界が来て、ひとり、子供のように泣いた。
泣いても何も変わらなかった。変えようと想えなかったからかもしれない。ありのままの自分は誰にも受け入れられないことを知っていたからだ。
それから、自分は、ハシビロコウみたいに一点を見つめて、心の中は歌うように囀るカナリアになった。
いつまでも、この静かな鳥かごを飛び回る、人間になれない可哀想な鳥。
まだ、翼は折れていないから、海の底へは行けないけど。いつか、行ってみたいな。
深い深い海の底へ。
君に会いたくて
少し暗い話?になる。ここだから書けること。
「希死念慮」という言葉を知っているかな?
「死にたい」という気持ちのこと。
「消えたい」とも似ている。
実は、自分は月に2回くらいこの希死念慮が現れる。
でも、「絶対に死なない」と決めている。
だからなるべく想いがあっても、「死にたい」とは口にしない。文字にもしない。
その言葉を聴いた人、見た人は、ひどく傷付くと思うから。
なぜ生きるのか?理由なんていらない。
ただ、生きているだけでいい。
そう言い聴かせて生きてきた。
何度も「死にたい」「消えたい」を乗り越えてきた。
「ママ大好きだよ」と言いながら、抱き締めてくれる君が、暗い谷底しか見えないような光景から救ってくれた。「ママ見て」と変な顔をして、笑わせてくれる君とずっと一緒にいたい。
明日の君に会いたくて、今日を生きてる。
「ありがとう。ママも大好きだよ。」
閉ざされた日記
日記は苦手。
気が向いた年は、100円shopで気に入った模様の手帳を買って、出来事をちょっとメモしようかなと、やってはみる。けど、1ヶ月ともたない。
例え続いたとしても、それは、体調不良と情緒不安定と愚癡の記録帳と化す。振り返ると頭を抱え、誰にも読ませられないような内容だ。
そんな負の遺産を遺してしまうくらいなら、日記など書かないほうが良いと想う。
月日が流れ、手帳が発掘され、本になってしまう…なんてこともあるのだから。
でも、そうだなぁ…。
1日の最後に、色んな事を想い出して自分なりの言葉にする。
そんなゆったりとした時間があるのなら、閉ざされた日記をまた開いてみてもいいのかもしれない。
この気持ちは「書いて」が作ってくれた。
こんなに言葉を綴ることが好きだった
こんなに自分の中の言葉を書き出す事が癒やしになる
こんなに誰かの書いた言葉を追い求め
こんなにすらすらとたくさんの文章を読むことができる
こんなに心に響く言葉を持っている人がいる
本や文章を読むのが苦手だった。
人に想いを伝えるのが苦手だった。
文字なら、言葉なら、自分が誰なのか知られないこの場所なら、表現できる。
「書いて」ありがとう。
木枯らし
はらはらと青空に舞うイチョウの葉。
風は、くるくると円を描く。
移ろう季節が美しいと、あの人は教えてくれた。
少し前に、どんな物事が起きても、何をしていても心が動かない時があった。自分の内側に塞ぎ込み、目に映るものは全て灰色だった。
雨の日、イチョウの葉は水たまりの中で溺れているようにも見えた。
ふと、想い出した。
後部座席の窓に貼り付くように眺めたあの情景を。
鮮やかな黄色に色付いた葉は、まるで生きているかのように舞い、車は黄色のカーテンをくぐり抜けて行く。
あの人は「綺麗だね」と言い、たくさんのことを教えてくれた。
葉が色付く理由。秋から冬へ向かうこと。
イチョウには実がなり、「銀杏」という名前で、ちょっと匂うけど、美味しいこと。
木には年齢があること。
自分の心が動いた。
雨の日、水たまりの中のイチョウの葉は、鏡に映したようで綺麗だった。道の上、色を深めた黄色は絨毯のようにどこまでも続いていた。
「あぁ、綺麗だな。」
ひとり呟いた。
木枯らしが吹く度、あの人を想い出す。
願わくば、移ろう季節の隣には、いつまでもあの人が居て欲しい。なんて、神様は許してはくれないだろうな。
だからせめて、移ろうたびに離れていくあの人と、今、共に過ごす時間を心に刻む。
自分の心が動く限り。
長くなってしまいました。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。
では、また。
美しい
そう、口にしたことはないけれど。
一番近い感覚は「綺麗」かな。「素敵」とか。それに加えてなんとなくキラキラがついてる感じが「美しい」になるのかな。
まだそんなに、「美しい」と口にするような物事には出逢えていない。
目にした物事によって、自分の中の大事な何かが動いた。そのときに、そう想うのかもしれない。
いつかそんなキラキラしたものを見付ける旅に出たい。ひとり、気ままに。カメラを持ち歩いて。
「美しい」
その情景を切り撮って、そう呟くことができた自分も、心根が美しく居られますように…。