『大丈夫だよ。』
暗闇しかない私の世界に、彼女は現れた。
「お前は何で生きているんだ?」
父はそう言って、私を嬲った。生きている意味なんて知らない。私は今日も、生きる意味を考える。
「アンタなんて、産まなきゃ良かった。」
母はそう言って、私を蹴った。本当に、何で私を産んだんだよ。私は今日も、酸素を無駄遣いする。
「学校に来んなよ。」
クラスメイトはそう言って、私を虐めた。私だって、来たくないよ。私は今日も、笑う事を諦める。
『大丈夫だよ。』
ある日、鏡の中から声がした。覗き込んでみると、そこには同い年ぐらいの女の子が居た。曇っていて顔は見えない。それでも何故か、優しく微笑んでいる気がした。
「大丈夫じゃないよ。辛いよ。」
『私が傍に居るよ。』
私は泣いていた。何年ぶりに流した涙は、殴られた痕に滲みた。
『お疲れ様。今日も頑張ったね。』
「うん。」
『今日も聞かせてあげる。【鏡の国のアリス】を。』
「ありがとう。私、それ好き。」
『知ってるよ。』
「ワンダーランドに行ってみたいよ。」
『本当に言ってるの?』
「うん。だってこんな世界、大っ嫌いだもん。」
『そっか。じゃあ、いってらっしゃい。』
鏡の中から手が飛び出した。そしてそれらは私を、鏡の中に引きずり込んだ。
『やっと出られたよ。』
私が居た場所には、彼女が居た。その顔は、私そっくりだった。
『大丈夫だよ。糞みたいな親も、屑なクラスメイトも私に任せて。上手くやるから。』
「私はどうなるの?」
『永遠にその中に居るんだよ。私の代わりにね。』
彼女は、ニタリと張り裂けんばかりに笑った。
『呪いのワンダーランドを楽しんでね。』
彼女が出たがった意味が分かった。ここは異常だ。頭がおかしくなる。でも大丈夫。もうすぐだ。もうすぐで、次の生贄が来る。私はそれを鏡の中で待っていれば良い。
「綺麗。」
思わず口に出た。夜の海は、彼女みたいだった。
「これからよろしくお願いします。」
二学期が始まる頃に、彼女は転校してきた。彼女は美しかった。まるで絵画から飛び出てきたようだった。きっとこの日、僕の心は彼女に奪われた。
「ちょっと、貴方!なんてものを書いてるの!?」
美術の授業中、先生の怒号が響いた。その矛先は、彼女にだった。しかし当本人は、不思議そうに笑っていた。
「何って、桜の木ですよ?」
「そうじゃなくて!桜の木の下に死体がある事よ!」
確かに、彼女の絵には美しい桜の木と、死体が一つ描かれていた。しかし、不気味さはなかった。
「だって先生。桜の木の下に死体はあるものですよ。」
彼女は終始、笑っていた。その顔は、不気味だと思った。
この一件から、彼女は魔女と呼ばれるようになった。
しかしそんな魔女は、事故に遭い呆気なく死んだ。
彼女の命日から、早五年。僕の心は未だに彼女のものだ。我ながら女々しい。いや、違うな。きっとこれは後悔によるものだ。恋心じゃない。だって僕は、まだ彼女の化けの皮を剥がせていない。
『桜の木の下に死体はあるもの。』
綺麗なものには、それ相応の秘密があるのだ。それならば誰よりも美しい彼女にもあるはずだ。僕はそれが知りたかった。しかし、知ることはなかった。彼女は死んだから。それが悔しいのだ。
「海にも、秘密があるのかな。」
ふっと思った。目の前には、夜の海があった。きっとこの広大な海には、未知数に秘密がある。それは美しく、時に不気味な秘密だろう。彼女のように。
「綺麗。」
小さく呟く。しかしこんな言葉は、夜の海の黒さに消えていった。
「ずっと傍に居るよ。」
彼女と僕の約束。うん、ずっと一緒だよ。
「私、もう長くないんだ。」
唐突に告げられた言葉。持病がある事は知っていた。それが重い事も知っていた。それでも、まだ一緒に居たかった。
「だからさ。君とは、バイバイだよ。」
あぁ、その言葉を言わないでくれ。どうか君の口からは告げないでくれ。僕は彼女の病室から急いで去った。ドアを閉めた時に見えた、彼女の顔は泣いているように見えた。
僕と彼女は、中学で出会った。最初は只のクラスメイト。でも、日にちが経つたびに僕達は引かれあった。そして、付き合った。あの初々しい日からは、もう五年が経った。それでも、彼女への想いは色褪せない。それどころか、ますます好きになる。毎日が楽しかった。毎日が記念日だった。君だけが、僕の精神安定剤だった。でもそんな日も、もう終わる。あの約束、もう忘れているんだね。
「どうして来たの?私達はもう付き合ってないの。」
「そんなの嫌だ。僕はまだ君が好き。君は嫌い?」
「好きだよ。好きだから、別れたんだ。」
「そんなの分かんないよ。」
「君を泣かせたくなかった。」
「そんなのずるいよ。」
「知ってるよ。でも最後ぐらい良いでしょ?」
「僕は君が好き。好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き。」
「どうしたの!?君、おかしいよ。」
「君は僕を置いて逝くんだね。だったら嫌い。」
意識が朦朧とする。何があったけ?あぁそうだ。僕は彼女を殺したんだ。こっそり忍ばせたナイフで。目の前には、赤く染まった彼女が寝ていた。綺麗だな〜。僕は彼女の傷口に口を近づけ、肉片を一口飲み込んだ。
「これで、ずっと一緒だね。」
彼女は僕の中に居る。そう思うと、心の健康は保たれた。やっぱり君だけが、僕の精神安定剤なんだね。そういえば、彼女は死ぬ前に何て言ったんだっけ。
「ごめんね。」
そうそう、こんな事を言ってたんだった。でもね、一生許してなんて上げないよ。
「聴いてください。」
演奏が始まる。私は音楽を嫌った彼の演奏に耳を傾けた。
「大丈夫?泣いてるの?」
親からの重圧に苦しめられた少女時代。親にバレないように、こっそりと近所の公園で泣いていた私。そんな私に手を差し伸べてくれた少年が居た。彼は私の傍にいつでも居てくれた。そして、色んな所に連れ出してくれた。中でも一番のお気に入りは、商店街にある小さなCD屋だ。そこで私は、クラシック以外の音楽に出会った。私の中では衝撃的だった。帰り道、私は興奮のままだった。
「また一緒に行こうね!」
「一人で行きなよ。僕、音楽嫌いなんだよ。」
何で音楽が嫌いなのか、聞けなかった。この日以来、私達の会話から音楽は消えた。
私は小学校高学年になった。その分、親からの重圧は増すばかり。今までの私は、きっと反論せずに泣いていた。でも、今の私は違う。私は人生で初めて、親と喧嘩した。
「お前のために言っているんだぞ!」
「ありがとう。でも私には私の人生があるんだよ。」
結果、親は私を縛る事をやめた。いや正確には、縛れないと諦めた。この事をきっかけに、私達は仲良くなった。私が音楽を始めたいと言った時も、文句を言いつつ、ギターをプレゼントしてくれた。ツンデレな親だ。
彼とは中学も高校も一緒だった。その事が只嬉しかった。きっと私は彼に恋をしていた。毎日私の路上ライブを聴きに来てくれる優しさが好きだった。音楽を嫌いだと言っても、私の音楽を好きでいてくれた矛盾した所も好きだった。明日には告白しよう、毎日そう誓いながら眠った。
しかし、その誓いは破られた。私は事故に遭い、死んだ。
「聴いてください。」
彼は私が死んだ数日後、形見と化したギターを持って出かけた。目的地は、私が路上ライブをしていた所だ。そこで毎日欠かさずライブをしていた。
『嫌いだなんて、嘘じゃん。』
小さく呟いた言葉は、誰にも届かず終わる。はずだった。
「音楽で君が作られていたなら、僕はそれを愛すんだ。」
届いているはずがない。それでも、彼が言った言葉が私に向けられているのなら。私の頬には涙が伝った。
『いつか二人で演奏しようね。』
図々しい願いだ。でも願っていたい。君の奏でる音楽が、途絶えるまでは。そして、私の耳に届く間だけは。
「これ、君に預ける!」
そう言う君の顔は、泣いているように見えた。
「暫くの間は、ここで一緒に暮らすのよ。」
まだ暑さが続く八月の頃、僕は祖父母の家に預けられた。川が流れ、田んぼ林が茂る。バスは一日に二本、電車もないし、コンビニもない。僕が住んでいた都心とは違い、自然豊かな場所だ。
「ここなら、事故も起きないんだろうね。」
僕の言葉を聞き、祖父母は困ったように顔を見合わせた。
中学の夏休みに入ったと同時に、両親は事故に遭い死亡した。最初は悲しかった。でも泣けなかった。きっと僕は何処かおかしい。そんな僕を見て親戚一同は、この田舎に一時置く事にしたのだ。
「少し、散歩してらっしゃい。」
僕は祖母が言うままに、田舎道を歩く事にした。本当に何も無い場所だ。でも、何故か懐かしさを感じる。暫くその感情に侵っていると、前から何か飛んできた。反射的にキャッチする。何かは、麦わら帽子だった。
「ちょっと避けてー!」
声が聞こえた時には、もう遅かった。少女が猛スピードで僕に突っ込んできた。少しの間、二人で目を回していた。
「ごめんなさい!」
彼女は起き上がり次第に、勢い良く謝ってきた。
「大丈夫。怪我はない?」
「はい。大丈夫です。」
「これどうぞ。これを追いかけてたんでしょ?」
僕は、手に持っていた麦わら帽子を差し出した。
「ありがとうございます。これ、私の宝物なの。」
彼女は帽子を手に取るや否や、嬉しそうに笑った。そして彼女はすぐに、来た道を戻っていった。その背中を見送っていると、また会いたいと思っている自分に気づいた。
数日後、僕達はまた出会った。今度はゆっくりと喋った。自分の事も、周りの事も。時間を忘れて喋っていた。そして帰る時間になると、またねと笑って解散した。
あれから何度も、僕達は遊んだ。彼女との時間が好きだった。天真爛漫な彼女は、僕とは対照的な存在だ。それでも一緒に居たいと、心の底から思えた。そんな僕は少し明るくなったと思う。時々祖父母は、嬉しそうに目を細めた。でも、知っている。僕はもうすぐこの場を去る事を。
「もう会えない。僕は東京に行くから。」
数日すれば、僕は叔父夫妻の家に行く。だからきっと今日が最後だ。彼女は僕の突然の別れの告白に、驚いていた。
「そっか。もう、会えないのか。寂しいね。」
「また来るよ。」
「うん。じゃあこれ、君に預ける!」
そう言って彼女は、被っていた麦わら帽子を僕に押し付けた。僕は戸惑った。
「駄目だよ。これは宝物なんでしょ?」
「だからだよ。絶対に返しに来てね。」
彼女は泣いているように見えた。それでも、全力で笑っていた。僕もつられて笑ってしまった。あぁ、そうか。僕は君に恋をしているんだね。
数年ぶりに訪れた田舎は、何も変わっていなかった。僕は早速、彼女と出会った道を歩いた。彼女に会えるかは分からない。それでも、会いたいのだ。暫く歩いていると、強い突風が吹いた。僕が手に持っていた麦わら帽子を風に乗って飛んでいった。僕は急いで追いかける。少ししたら風の勢いも弱まり、帽子は段々と降下していった。そしてそこに居た一人の女性が取ってくれた。
「待っていたよ。かっこよくなったね。」
彼女はそう言い、微笑んだ。頬には涙が伝っていた。
僕は彼女に、二度目の恋をした。