「何故俺なんかに。」
そういう彼の目は、助けを求めるようだった。
「大丈夫ですか?体調でも悪いんじゃ。」
僕と彼が出会った日は、土砂降りだった。道も分からず途方に暮れている僕に、彼は傘を差し出してくれた。自分よりも見知らぬ者を優先してしまう彼。そんな彼は天使のようであり、愚かでもあった。
『やぁ。久しぶりだね。この前はありがとう。』
僕が会いに行くと、彼は驚いた顔をした。
「どうやってここまで?外からは無理ですよね。」
彼が驚くのも無理はない。なんせここはマンションの二十階。そして、彼の部屋のベランダなのだから。
『僕には翼があるから。』
僕は背中についた白い翼を動かしてみせた。
「天使みたい。」
そう、僕は天使。人間を助けるために、地上に舞い降りた神の使いなのだ。
『君を助けに来たよ。』
「天使様は何故、俺のもとに?」
『君があの日、僕にくれた優しさを返しにだよ。』
「俺は優しくないですよ。全てに劣っているから、少しでも周りからの印象を良くしたいだけですから。」
『僕も、天使の劣化版だよ。自分が無価値なのが怖くて、誰かを助けて価値を見出そうとしてるだけだよ。』
「俺達、似てるのかもですね。」
今日で彼はこの街を去る。少し寂しいけど、それ以上に僕は彼が心配だった。
『君は自分をもっと大事にして。でないと近い未来、君は壊れてしまう。僕は君に生きていて欲しい。』
「何故俺なんかに?」
『自分よりも誰かを優先する君は、尊くもあり愚かでもある。でも、そんな人間こそ、この世で最も大切なんだ。』
「じゃあ何故、俺に自分を優先しろって言うんですか?」
『君はいつだって泣きそうだったからだよ。』
彼は静かに泣いていた。その涙を拭うと、更に涙が溢れてきた。とても温かくて優しい涙だった。
僕は今日も願う。彼が誰かのためになるならばと、自らの命を犠牲にしないように。自分のために命を消費できるように。そしてその時は、また二人で笑えるように。
「うるせぇ!」
そう言って彼女は、僕の手を引いた。
「可哀想な子。貴方には暗闇がお似合いよ。」
母はそう言って、僕を何も無い部屋に閉じ込めた。人目も日の光も当たらぬ、小さな部屋。僕はここでずっと育ってきた。何故なら、僕は呪われているから。
僕が十五歳になった日、神様は僕に呪いをかけた。不老不死になる呪いを。何故僕が呪われたのか。理由は分からない。でもきっと、娯楽が欲しかったのだろう。
「死ねないなんて惨めね。恥ずかしわね。」
母はそう言って、僕を見向きもしなかった。初めはすごく悲しかった。でも、次第に慣れてきた。暗くて、不自由な部屋。僕を閉じ込める鳥かご。それだけが墨の世界だった。しかし何十年も経って、母が死んだ。泣く事はなかった。一人で居る内に、僕の感情は消えてしまったのだ。
母の死から何十年が過ぎても、僕はずっと一人で居た。また誰かに拒絶されるのが、怖いのだ。それなのに。
「僕が気味悪くないの?」
目の前に居る彼女は、僕の話を聞いても僕の横に来る。そんなのって、おかしい。僕は異常なのに。
「気味悪くないよ。だってお前は普通の人間だ。」
「笑えない冗談は辞めてよ。」
これ以上、僕を惨めにしないでよ。
「私の目には、お前は普通の人間に映るよ。」
彼女が言うと、全てが正しく聞こえてしまう。
「違うよ。僕は嫌われるのが怖い、弱虫だ。」
「うるせぇ!それを普通の人間って言うんだよ!」
彼女は僕の手を引いて、抱きしめた。
「何で、こんな僕に構うの?」
「お前が、今にも泣きそうな顔をしてたからだよ。」
僕にとって彼女は、一瞬の時を生きる普通の人間だ。でもその一瞬は、僕が普通の人間として生きれる時だった。
あれから数十年後。彼女は眠りについた。彼女が僕の中の鳥かごを壊した日を、彼女と過ごした日々を、僕は忘れない。そう誓い、僕は彼女の墓に桔梗の花を贈った。涙は暫く枯れそうにないや。
「まさか、お前が死ぬなんてな。」
彼の墓石に向かって言った言葉は、虚しく宙を舞った。
俺と彼は幼馴染で、幼稚園からずっと一緒だった。そのせいか、俺の横に彼が居るのが当たり前になっていた。
「ずっと親友だよ。」
そう笑顔で言う彼は、もう俺の記憶の中にしかいない。
「俺さ、お前が嫌いだよ。」
今更何を言っても、無意味なのに。それでも、何となく言いたくなった。
「天才なお前に付いていこうと、必死に頑張った。でも、お前はどんどん先に行ってさ。」
勉強・運動・人間関係、どれに置いても俺は彼には勝てなかった。それが腹立たしくって、うざったくて、大嫌いだった。それなのに、いつも俺に差し伸べてくれる手が温かくて、嫌いになれかった。どうせ俺は中途半端な野郎だよ。でも、それはお前もだろ。俺を惨めにするだけで、見捨てなかった。いっその事、見捨ててくれたら楽だったのかな。
「俺はまだ、お前に勝ってないのに。逃げやがって。」
涙が溢れた。悔しい、寂しい、色んな感情が頭で回った。
「ずっと親友なら、ずっと傍に居てくれよ。」
あれから一時間ほど、彼の墓石の前で泣き続けた。そのせいで、目が痛い。俺は持っていた、ライラックの花を乱暴に彼の前に置いた。
「いつか絶対、お前に勝ってやるからな。」
俺はそう吐き捨て、その場を去った。
俺達の間あるものは、友情か劣情か。今の俺には分からない。しかし、きっとこの得体のしれないものを、人は絆と呼ぶのだろう。
「笑って。」
先輩は、只笑っていた。
「好きです。」
花咲く頃。俺は先輩に恋をした。
「罰ゲーム?」
「違います。先輩の花を一生懸命育てる姿に一目惚れしました。俺は本気です。付き合ってください。」
俺は体温が上がるのを感じた。先輩は少し顔を赤らめた。しかし、すぐに申し訳無さそうに言った。
「ごめんね。私は君の事何も知らないし。」
分かっていたけど。振られるのは心が痛い。それでも。
「それでも、何度でも告白します。先輩が俺を好きになってくれるまで。」
先輩は嬉しそうな悲しそうな顔をした。
花散る頃。先輩は事故に遭い、亡くなった。
あぁ、本当にもう居ないんだな。先輩の墓石前でやっと実感できた。俺は立っていられず、泣き崩れた。
「まだ好きになって貰って無いのに。」
『君は本当に諦めが悪いね。』
風と共に、先輩の声がした。目をやると先輩が居た。
『君の事が心配で、逢いに来てしまったよ。』
先輩は少し困ったように笑っていた。
『最後なんだ。しみったれた顔じゃないで笑ってよ。』
俺が下手に笑うと、先輩は泣きそうな顔をした。
「先輩、これからも好きです。」
『知ってるよ。』
強い風が吹いた瞬間、先輩の姿が消えた。
〈拝啓 俺が愛した人へ。花咲いて散る間、俺は何度貴方に恋したか。貴方は知っていますか?貴方との別れから三回、花が散りました。そして、また花咲く頃になりました。時々、見に来てくださいね。〉
「生きて。」
そう言って微笑む彼女。本当にずるいよ。
「ドラえもんの道具で、どれが一番欲しい?」
唐突な質問。彼女らしいと言えば彼女らしいが。
「私はね〜。タイムマシン!未来の自分がどうなってるのか知りたい!」
定番だな。僕がそう言うと彼女は、拗ねた顔をした。しかし、すぐに笑顔に戻る。こんな他愛のない会話が、ずっと続くと思っていた。
「大丈夫だよ。泣かないで?」
そう言って微笑む彼女。彼女の体は赤く染まっていた。先程、僕を庇って、信号無視の車に撥ねられた時にできたものだった。僕のせいで彼女が。それなのに只、泣く事しかできない自分を恨んだ。
「私の分まで生きてね。これは命令だよ。」
そう言って彼女は、僕の手の中で死んでいった。彼女が死んで数分後に救急車は到着した。
あの日から僕の世界は真っ黒だ。何度も死のうと思った。しかしその度に、彼女の言葉を思い出す。生きてだなんてずるい言葉。言われた側の気持ちを知らないで。本当に苦しいんだよ。でも、死ねない。このループが僕の人生を回る。きっとこの苦しみは、僕の贖罪だから。
もしもタイムマシンがあったら、僕は過去と未来の両方に行きたい。過去に行って、自分が生まれるのを阻止したい。未来に行って、彼女が僕が居なくても幸せかを知りたい。でも、叶わない。ならば今の苦しみを耐えて、来世で彼女と恋をする資格が欲しい。