「好きです。」
あの時、あの瞬間から俺の心は確かに彼女のものだった。
「もう一年か。早いね。」
教室の窓の外を眺めながら、彼女が言う。長い黒髪は風に揺れ、羽のようだった。神の使いかと思うほどの美しさが、彼女にはあった。そんなどこか儚いオーラを纏った彼女に、俺は一目惚れしたのが、一年前。あれから俺達は親友となり、恋人となった。
「来年も一緒に過ごしたいね。」
些細な願いだった。これの願いが叶うなら、俺は何だって出来る。そう思っていた。
ここは病院の中の一つの部屋だ。目の前には彼女がいる。目を伏せた彼女がいる。
「お願いだから、目を開けてよ。」
どうやら事故に遭い、意識不明らしい。そんなの嫌だ。彼女と話したい。彼女と笑いたい。ずっと彼女と一緒にいたい。想いが溢れる。しかし、この想いは彼女には届かない。こんなはずじゃなかったのに。辛いよ。怖いよ。こんな現実、逃げたいよ。でも、俺は諦めない。まだ、彼女と会える希望があるから。頑張るよ。何日、何ヶ月、何年経ってでも、彼女とまた一緒に過ごすんだ。
俺の努力は報われず、一年後に死んだ。もう駄目だ。彼女とは会えない。この事実は死よりも辛かった。
「君に会いたいよ。」
「それはこっちの台詞だよ。」
懐かしい声に、振り返る。そこには彼女がいた。
「君が死ぬなら私も死ぬ。だって、ずっと一緒なんでしょ?」
彼女はお茶目にそう言った。涙が止まらなかった。
「俺が起きるの、ずっと待っててくれたの?」
「当たり前でしょ。」
俺達は笑い合った。そして誓った。一年後も十年後も百年後も、来世でも、彼女の傍に居続けると。
「早く大人になりたいな〜。」
昔は今の現状に満足せずに、大人に憧れた。それなのに、今の俺は過去の俺が見たらどう思うだろうか。
〈〇〇小学校 卒業アルバム〉
そう大きく書かれた、分厚い本が目に入る。実家の倉庫の片付けをしている時だった。休憩がてら、アルバムを開く。
〈俺の将来の夢は、格好良い大人になる事です。〉
俺の将来の夢の欄には、そう書かれていた。抽象的すぎる夢に、顔が綻んだ。俺はなれたかな?
子供の頃は、自分こそが世界の主人公だった。そして、大人になったらもっとすごいことが待っている、そう信じていた。しかし、大人になって知った。昔憧れた大人は、存在しないのだと。大人はすごい、格好良いと目を輝かせていたあの頃にはもう戻れない。大人も社会も、薄汚いものだ。きっとその事を知った日から、俺もまた、薄汚い大人になっていったのだ。過去の俺を叱ってやりたい。抽象的な夢を抱く前に、もっと努力しろと。大人になってから頑張っても、もう遅いのだと。そして、教えてやりたい。お前が夢を見ているその日々が一番楽しいと。
あぁ、もう一度やり直したい。そんな馬鹿げた夢、叶うはずはない。ならばいっそ、これ以上汚くなる前に終わりたい。
足が自然と会社の屋上へと向かう。フェンスを越えると、そこには美しい景色があった。世界も上辺だけは綺麗なんだな。俺は少しの勇気と来世への期待を胸に、前へ歩く。
子供の頃は自分が世界の中心だった。大人になったら世界を回す歯車になった。歯車だとしても、俺が死んだら世界が悲しんでくれると期待してもいいじゃないか。
「貴方には普通の日常を生きて欲しいの。」
母の口癖だ。普通の日常ってなんだろう。
「ごめんね。普通の子に育てられなくてごめんね。」
昔、母が机に伏せながら俺に言ってきた。その側には、〈性同一性障害〉と書かれた紙があった。俺は戸惑った。俺は普通じゃないのか?分からない。しかし、一つだけ分かった。俺は母が望む子にはなれなかったのだ。その事がただ申し訳なかった。
「母さんは悪くない。私、普通の子になるよ。」
あの時決めた。私は普通の子になって、普通の日常を、人生を歩むのだと。
あの日から私は、普通の娘を演じた。学校では友達と恋バナをしたり、休日はカフェ巡りやショッピング。メイクやネイルは可愛い系。これが私の、普通の女子高生の日常。
「貴方が普通になって良かったわ。」
母はそう言って、嬉しそうに笑う。これがきっと正しい道なんだ。私は女の子。可愛いものが大好きな女の子。毎日そう言い聞かせて眠る日々。なんだか、疲れたよ。
「これでよしっと。」
部屋の天井にロープを吊るし終え、私は一息着く。やっと終われる。そう思うといつもより心が軽かった。俺は、鏡に向かった。今までは鏡を見るのが辛かった。見る度に、自分の性別を言い聞かせられるようで。でも、今の私は、ベリーショートの髪にメンズの服を身に纏っている理想の姿。
「最後ぐらい、俺の好きにさせてね。」
俺は空中に言葉を放った。返事がなくとも、心地よい。俺は、自分の首にロープを掛けた。静かな部屋で、俺の体が浮いたままだった。
「女の子なんだから。」
聞き飽きた言葉。私を否定するこの言葉が大嫌いだ。
「ランドセルの色、何がいい?」
小学校入学前、両親とランドセルを買いに来た時だった。
「黒色がいい。」
私は目の前にある、黒いランドセルに目を奪われた。しかし、私の言葉を聞いて両親は戸惑った表情をした。
「黒色だと男の子みたいでしょ?貴方は女の子なんだから、赤色とか桃色にしなさい。」
貴方は変。そう言われた気がした。結局、ランドセルの色は、赤になった。
あの日から私は、自分の心に嘘をついてきた。黒色よりも赤色。格好良いよりも可愛い。こうして偽れば、世界に馴染めた。これは正しい事。そう思い込んでいた。
〈僕は、黒よりも赤が好き。赤ってリーダーって感じでかっこいいし、可愛いから好き。でも、これは世間からは認められなかった。それが辛かった。好きな事を好きだと言えない世界なんて、こっちから願い下げだ。〉
これは数日前に飛び降り自殺をした男子高校生が書いた遺書だ。私は、彼の飛び降りた後の姿を見た。元の形を残しておらず、真っ赤に染まっていた。私はきっと、その姿を忘れられない。
男は黒、女は赤。その偏見を強要し、自分がした言動を一切疑わない奴ら。うんざりだ。もう、辞めにしよう。自分を偽るのは疲れた。だから、ここに来た。
「屋上、初めて来たなー。」
風に耳を澄ませ、目を閉じた。きっと葬式では、皆黒い服を着て来るのだろう。私の好きな色。楽しみだ。
「でも、あの時見た赤は綺麗だったな。」
私は、誰かの記憶に残るようにと、飛び降りた。
「貴方に出会えてよかった。」
俺が何と言おうと、返事は来ない。あぁ、狂おしい程に愛おしい。
「悪魔だ。」
殺した相手に言われた言葉だ。悪魔だなんて。俺は神に仕える身だぞ。神は人間にお怒りだ。私利私欲のために相手を蹴落とす姿勢、差別をする物言い、全てに対して、呆れておられる。だから、俺が神に代わり人間に鉄槌を下す。
この街では、十歳になったら教会にお祈りをしに行く風習があった。俺も十歳の時に行った。そこで俺は神に心を奪われた。周りから見たらただの石像。しかし、俺の目には美しく清い姿に見えた。そして俺は、神に仕えるために産まれてきたのだと、理解した。どうすれば神は喜ぶだろうか、俺は考えた。そして、一つの案に辿り着いた。この世で一番不要なもの【人間】を無くせばいいのだ。
「君が噂の人殺しくん?」
目の前の男が聞く。俺は頷く。何なんだコイツ?普通もっと慌てるだろ。もしかすると、俺よりも強いのか?
「僕は今から君に殺されるだろう。その前に一つ聞いてくれるか?」
「恨み言か?」
「神を買い被るな。神は戦争の止まないこの世界を、楽しんでいるぞ。」
その言葉を残し、男は死んだ。
あの男の言葉が頭から離れない。俺が仕えてきた神は、俺が信じてきた神は、腹黒いものなのか?
「貴方がいたから、俺は正しい道を歩けました。」
しかし本当は、貴方がいたから俺の人生は狂ったのか?神からの答えはない。きっと、俺が信じた神はもういない。
「神が死ぬ時、俺もまた死ぬ事ができる。」
そして俺は、血塗られた手で自分の喉を掻っ切った。